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この記事の目次
本能寺の変に至るまで
1582(天正10)年。この年は本能寺の変が起こる年。その3か月前、信長は武田勝頼との最終決戦に臨み、光秀も従軍。そしてついに武田氏が滅亡します。そして光秀は5月には徳川家康の饗応役を命じられますが、途中で解任されます。そして信長からは中国遠征で毛利相手に苦戦している秀吉の援護を命じられます。
一旦自領に戻った光秀は、6月に出陣。その軍勢は中国地方に向かうのではなく、信長のいた京都の本能寺に向けられて謀反。本能寺の変が起き、信長と嫡男の信忠が殺されます。明智軍が13,000に対して、信長側は本能寺に小姓などが中心で100人にも満たない数。二条新御所にいた信忠でも1500程度の軍勢しかおらず、流石の信長も何もできませんでした。この本能寺の変についてはなぜ起きたかについては、あまりにも多くの説があり、光秀単独説から黒幕説までいろいろあり、明確な理由はわかりません。
どうしても歴史は勝者のためにあるため、この後光秀を倒し、天下を取ることになる秀吉が、何らかの改ざんあるいはその事実を抹消している可能性が高いからです。また実は堺に少人数でいた徳川家康を討つように信長から内々に伝えられていたという説があります。すでに光秀は謀反のつもりでいたので、家康を討つふりをして本当に討ったのは信長だったというエピソード。しかしこれも含めて真相は闇の中です。
三日天下と呼ばれた十数日
本能寺の変で信長を倒してから、山崎の合戦に敗れて死ぬまでの間が光秀の天下だったということで「3日天下」と呼ばれます。実際には十数日ありました。本能寺の変のあと、光秀はそのまま安土城に入ります。しかし勢多城主の山岡景隆が、瀬田橋を落とし抵抗しました。
この修復などのせいで安土城入城が3日遅れたとも伝わります。安土城に入った光秀は、機内方面軍の寄騎だった藤孝や順慶に書状を送り味方になる様に伝えますが、いずれも光秀の思い通りになりません。そして想像以上の速さで、秀吉が中国地方から大返しで戻ってきました。あわただしく出陣した光秀は京都の西の山崎に来ます。
この山崎の合戦での秀吉軍は4万近くい軍勢で、数の上では光秀は不利なものの、山崎の地形が狭く3千程度の軍勢しか動けないこと。さらに急遽戻ってきているので、秀吉軍が疲弊しているために長期戦となれば勝算が十分ありました。
しかし摂津の高山右近らが秀吉側についたため、秀吉軍本隊が突撃するまでもなく、大勢が決まったと伝わります。
光秀は敗走し、本拠地である坂本を目指します。城に戻れば状況次第で逆転できる可能性はは残されていました。しかし山中を逃亡中に、落ち武者狩りをしていた百姓に刺されて深手を負い、結局自害し果てます。本能寺の変が6月2日で山崎の合戦が6月13日。たった11日間だけの天下人として幕を閉じました。
光秀死後の評価
山崎の合戦で光秀を討ち取った秀吉は、織田家の家臣の中でも力を持ち、やがて反発した勝家らの反秀吉派と激突。これをことごとく退けます。他の織田家家臣も秀吉の家臣となり、朝廷工作により関白となった秀吉は全国統一に成功します。
この間光秀は「惟任退治記」などにより、主君信長を裏切った謀反人として徹底的に悪く仕立て上げられます。それを元にした書物を元に研究されたため、長く謀反人という評価がつづきました。江戸時代においても、光秀は主君への忠誠を裏切った人物として「極悪人」との評価になっています。
しかし最近の研究では、以前と比べて再評価されております。信長からは織田家の中で最も高い評価を得ていたこと。信長にいじめられるという、心優しいというイメージではなく、信長の命令に忠実で、比叡山の焼き討ちや丹波平定での戦いは残虐だったということ。その代り平定後の丹波の領民には、税の免除などの良政を行ったという事実も判明しています。
ときは戦国時代で下剋上の世の中。光秀でなくとも主君を裏切る例はいくらでもあります。また信長が将軍義昭を追放、秀吉が信長死後の織田家を引き立てるそぶりを見せながら、結局自らが天下を取って豊臣政権を樹立した。あるいは家康も秀吉の死後に豊臣政権をつぶしたなど、他の英雄たちも似たことをしています。
戦国時代ライターSoyokazeの独り言
明智光秀のイメージでは信長を討った謀反人として長く伝えられ、光秀を倒して天下を取った秀吉や家康が都合の悪い部分を排除して歴史を作りかえた可能性が高いです。しかし光秀の再評価も行われています。その最も顕著なのが、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公が光秀という事実。それまで謀反人としてでしか扱われなかった、光秀が主役となることで、少しでも隠れた彼の功績が多くの人に知れ渡るでしょう。
参考文献:
小泉策太郎『明智光秀』
高柳光寿『明智光秀』
奥村恒次郎『明智光秀』
明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』
井原今朝男『室町期廷臣社会論』
池上裕子『織田信長』
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