明智光秀の評価をその生涯から検証

2020年8月16日

編集体制の詳細を見る
kawauso編集長(石原 昌光)

編集責任者

kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

提供する掲載情報について

『はじめての三国志』は、複数の企業と提携し情報を提供しており、当メディアを経由して商品への申込みがあった場合には、各企業から支払いを受け取ることがあります。

ただし、当メディア内での商品評価に関して、提携の有無や支払いの有無が影響を及ぼすことはありません。また、当メディアで得た収益は、読者の皆様により役立つコンテンツ制作へ還元し、情報の正確性担保に努めています。

詳しくは 編集ポリシー をご覧ください。


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

敵は本能寺にあり!と叫ぶ明智光秀b

 

明智光秀(あけちみつひで)の評価を検証します。一般的には本能寺の変(ほんのうじのへん
)
で、主君信長を殺害した謀反人としてその名が知られる明智光秀。

 

明智光秀(麒麟がくる)

 

しかし2020年の大河ドラマで主役を張るなど、近年は光秀に対する評価もずいぶん変わりました。ここでは光秀の生涯を確認しながら、その評価について改めて確認して行きます。

 

青年期の光秀

明智軍記_明智光秀_書類

 

明智光秀の出自について記録がほとんど残っておりません。生誕年については、1528年とか1516年などはっきりしていません。一般的には、清和源氏の流れを汲む土岐氏の支流・明智氏で、現在の岐阜県可児(かに)市を拠点としていた勢力でした。

 

斎藤道三

 

父の名は光綱(みつつな)とされ、本家の土岐氏に代って美濃を実効支配した斉藤道三(さいとうどうさん)に仕えています。

 

明智光安(麒麟がくる)

 

幼少期は明智城で過ごしました。光綱が若くして亡くなったため、後見人として叔父の光安(みつやす)が城主を務めます。

 

斎藤義龍に討たれる斎藤道三

 

やがて道三とその子・義龍(よしたつ)の親子が争い、敗れた道三側についていたため、明智城を義龍が攻撃。これによって城は落とされ、一族が離散します。その際に脱出を試みた光秀に、光安の子・秀満(ひでみつ)を託したとも伝わります。

 

朝倉義景

 

その後放浪を続けた光秀は、一般的な説として越前の大名朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼りました。

 

細川藤孝

 

但し諸説あり。その中のひとつとして、室町幕府13代将軍足利義輝(よしてる)の幕臣・細川藤孝(ほそかわふじたか)に仕えたという説も存在します。また光秀は若き頃に医学的な知識を手に入れました。その内容を語ったものを、人伝いに聞いたものを記録した書が残っています。それは米田求政(こめだもとまさ)が、したためた写本「米田文書」です。

 

関連記事:明智光秀が初陣?で籠城した田中城とは?米田文書は信用できる?

 

朝倉・足利義昭の家臣

正装した明智光秀

 

一般的に光秀は越前の義景を頼り、10年近く過ごしたと言われています。実際に義景からは500貫の土地を与えたとする記録が残っています。しかし、正式な家臣でというわけはなく、朝倉家家臣としての働きの記録も残っていません。これは越前にいたとされる、土岐一族の親戚縁者を頼って光秀が越前に来て滞在していただけという説。これはいわゆる「食客」のような立場とも、あるいは前述した通り、光秀が医学知識を持っていたことから、医者として生計を立てていたというものです。

 

松永久秀

 

いずれにせよ義景の元で何らかの役職にはついていませんでした。やがて1565(永禄8)年に13代将軍・義輝が、三好三人衆(みよしさんにんしゅう)と松永久秀(まつなが ひさひで
)
により殺害されると、弟の義昭(よしあき)は最初に若狭、次に越前を頼ります。

 

足利義昭

 

ここで光秀と義昭との接点が生まれました。義景の元に身を置きながら、義昭の幕臣として振る舞うようになります。義昭は一緒に京に上って、三好三人衆らを追い出す大名を探していました。しかし義景は前将軍の弟ということで義昭を厚遇しますが、京を攻める気がありません。

 

織田信長

 

このとき、光秀が義昭に「義景でなく織田信長(おだのぶなが)を頼った方が良い」と。勧めたとされます。そこで義昭は1568年7月に信長が美濃を平定したことで、将軍になるために手を貸してほしいと要請。その使者として信長の元を訪ねたのが光秀です。

 

織田信長との出会い

斎藤道三の娘・帰蝶

 

義昭による信長の正式な使者は、義輝時代からの幕臣で、義昭と共にしていた細川藤孝でした。しかし実質的な仲介役として光秀が動いたという記録が残っています。一説には光秀の叔母が斉藤道三の夫人とされ、それは信長の正室・濃姫(のうひめ)の母親であったとも。つまり従兄妹という関係があったことが、その役目を果たし得たとされます。

 

お茶を楽しむ明智光秀

 

光秀が藤孝に仕える「中間」だったという説もあるため、藤孝の下の立場で動いたとも考えられます。いずれにせよ信長は、義昭と共に京を目指すことを決意。これも諸説ありますが、一般的に信長はこのときに光秀を家臣にしたとも言われます。つまり光秀は、幕臣でありながら信長の家臣という両属状態。朝倉家と同じ500貫で信長に召し抱えられましたが、その立場は部下の無い家臣とも言われています。

 

馬に乗って戦う若き織田信長

 

そして1568(永禄11)年10月に、義昭ら幕臣とともに織田軍が京都に入京。14代将軍義栄(よしひで)や三好三人衆らを追放します。ここに義昭が室町幕府15代将軍になりました。信長は光秀らを残し、一旦岐阜に戻ります。翌年1月にかけて、三好三人衆の逆襲が始まり、義昭が滞在していた本圀寺を襲撃。このときに幕府側の一員として明智光秀が奮戦し、これを退けています。

 

幕臣・信長直臣としての活躍

豊臣秀吉 戦国時代

 

本圀寺の変で三好勢を追い払った後、信長が再び上洛。光秀は木下(羽柴)秀吉(きのしたひでよし)ら織田家の家臣と共に、京都奉行の職務を務めます。この年の10月に義昭と信長が対立する事件が発生。信長は義昭の権限を規制する殿中御掟(でんちゅうおんおきて)を通告します。このときの宛先は、光秀と朝山日乗(あさやまにちじょう)になっています。

 

義昭が承諾したため信長が上洛。このときは朝廷から直接天下静謐(せいしつ)執行権が与えられております。いわば信長は将軍の家臣ではなく、距離を置いた対等の立場となっていました。その後、信長に敵対する相手との戦いに光秀が活躍。

 

浅井長政(あざいながまさ)

 

代表的なものとして、金ヶ崎の戦いがあります。これは信長の上洛命令を無視した朝倉討伐を行おうと、越前に兵を向けたところ、突如同盟を住んでいた北近江の浅井が裏切り、織田軍の背後をついて攻めてきました。ここからの撤退時に殿(しんがり)として、秀吉とともに務めあげ、防戦に成功しました。このほか若狭への出兵も行っています。

 

明智光秀は鉄砲の名人 麒麟がくる

 

こうして光秀は織田軍の一員として戦いに出る一方、幕臣としての立場も保持。義昭から山城国久世荘の所領を与えられています。その一方で信長からは大津の宇佐山城を任されます。ちなみにこの城は、初めて築城に石垣を使いました。

 

関連記事:【織田信長の性格】浅井長政が叛いたのは信長がジャイアンだから

関連記事:姉川の戦いとはどんな合戦?織田・徳川軍vs浅井・朝倉軍の駆け引きとは?

本願寺と比叡山焼き討ちでの動き

三好三人衆

 

1571(元亀2)年になると、四国に撤退していた三好三人衆が再び京に攻め上がります。

 

本願寺顕如

 

そして今度は同時に大坂にある石山本願寺(いしやまほんがんじ
)
も挙兵。織田・足利連合軍と対峙します。このときの光秀は、まだ義昭・信長というふたりの主君に使えている状態。そしてこの年の9月には比叡山焼き討ちが行われます。

 

比叡山の僧兵(僧侶)

 

この背景には、浅井・朝倉連合軍との戦いがありました。1570年の姉川の合戦で織田軍が勝利を収めるも、浅井・朝倉は比叡山に立てこもります。平安初期に最澄が開いた比叡山に逃げられると、信長といえども容易に手が出せませんでした。正親町天皇(おおぎまちてんのう)の調停などで和睦が行われるも、信長の支配している周辺ではゲリラ戦がおこわなれたり、石山本願寺との戦いなど、いわゆる信長包囲網が形成されていました。そんな状況で信長は、半ば要塞化した比叡山を無力化するために焼き討ちを決意します。

 

裏切りそうな悪い顔をしている明智光秀

 

その作戦の中心的な実行部隊が光秀でした。当初光秀はこの焼き討ちに反対でしたが、最終的に信長の命令に従います。比叡山を3万の兵が取り囲みました。慌てた比叡山は黄金を渡して攻撃中止を祈願するも、信長は受け入れずに追い返します。そうして総攻撃の合図とともに光秀らは山に火を放ち、徹底的に建物などを破壊しました。このときの光秀の対応は、非常に手厳しいものであったと言われています。そして戦後処理を任されたのも光秀でした。

 

信長家臣初の大名として坂本城の築城

明智光秀 麒麟がくる

 

大津にあった宇佐山城を任されていたころの光秀はまだ、信長、義昭のふたりの主君に仕えていました。しかしこの比叡山焼き討ち前後に、正式に信長の直臣になったと言われています。比叡山焼き討ちでの活躍が認められた光秀は、1571年(元亀2)に近江国の志賀郡を与えられました。これは5万石相当の領地で、信長家臣の中で一番早く大名としての扱いを受けています。

 

意気投合する明智光秀と織田信長

 

つまり秀吉よりも数年早くそのような地位を受け継いだ光秀は、信長からは高い評価を得ていたことがうかがえます。また焼き討ち後の比叡山の監視。それからまだ北近江の浅井など、敵対勢力が残っている琵琶湖沿岸部での制海(湖)権を獲得する狙いもありました。

 

明智光秀を信頼する織田信長

 

信長から領地を得られた光秀は、さっそく坂本城築城に取り掛かります。この城には天主も建てられていたとの記録も残っています。

 

ルイス・フロイスの書き残した日本史

 

さらに後に信長が建てた安土城に次ぐくらいの素晴らしいものであると、キリスト教の宣教師・ルイスフロイスが残した「日本史」の中で記述しています。以降、光秀はこの坂本城を拠点として、信長直参の立場で近江国の平定を目指すことにあります。

 

馬に乗り落ち延びる明智光秀

 

光秀は後に丹波を平定し、居城を亀山に移しますが、坂本城の城主の立場を崩さず、本能寺の変の後に行われた山崎の合戦での敗退後、坂本城に戻って体制を立て直すことを考えていました。

 

義昭追放室町幕府滅亡の遠因?

同年小録(書物・書類)

 

1571(元亀2)年、信長より、5万石の所領をもらい坂本城主となった光秀。このころから、幕臣として支えていた将軍義昭に見切りを付けようとします。この年の12月に義昭に暇願いを出すも、不許可となっているという記録が「曾我助乗(そがすけのり)宛暇書状」として残されています。また旧比叡山領の支配をめぐって、信長と光秀が一時対立。その結果、義昭と信長との対立を引き起こしたという説もあります。

 

馬にまたがって戦う明智光秀

 

とはいえ、翌、1572(元亀3)年に河内の国に出兵した際には、まだ光秀が幕臣のような立場とも思える出兵をしたという史料もあるほど、完全に信長の家臣とは言えない状況だった可能性があります。

 

武田信玄を極端に恐れる織田信長

 

明確に信長寄りになったのは、その次の年に義昭が信長に対決しようとしてからです。これまで義昭は信長を倒そうと、武田信玄(たけだ しんげん
)
など周辺の有力大名を使って追いつめていました。いわゆる信長包囲網とよばれるものです。

 

武田信玄が攻めてきてビビる織田信長

 

信長は追い詰められながらも確実にそれらを打ち破り、義昭の野望が崩れ去ります。

 

逃げ回る足利義昭

 

4月に義昭自ら出兵するものの、圧倒的な力の差がありながら、信長は義昭の命を取ること無く、朝廷の仲介でいったん講和します。しかし懲りることなく7月に再度信長に反旗。南山城の横島城で抵抗するも、やはり圧倒的な力でこれを包囲。ここには光秀も織田軍の一員として従軍しました。そしてあっけなく降伏した義昭はついに追放され、室町幕府が滅亡します。

 

丹波攻略で人質になった母親?

天下布武を唱える織田信長

 

義昭追放で元号を天正と改めた信長とそれを支える光秀。京都の政務は、この年に村井貞勝(むらいさだかつ)が京都所司代に任命されてからもしばらく担当しており、連名での文書などを出した記録が残っています。1575(天正3)年になると光秀は惟任(これとう)と、従五位下日向守の任官を受けます。この時点で織田家重臣になったとされます。

 

明智光秀(麒麟がくる)

 

ここから光秀は新たな命令を信長から受けます。その間、長篠の戦いや越前一向一揆にも従軍していましたが、それ以上の大役として丹波攻略を言い渡されます。ここにいる国人衆は義昭派だったこともあり、将軍追放で、反信長派になっていました。

 

荒木村重

 

この作戦は1579(天正7)年まで4年近くかかって行われました。この途中には信長に謀反を働いた荒木村重(あらき むらしげ
)
の戦いや石山本願寺の合戦に参加するなど、丹波だけを攻撃しているのではありません。

 

細川ガラシャ

 

また三女の玉子(後の細川ガラシャ)を細川忠興の元に嫁がせますが、これは信長による政略結婚でした。この丹波平定で光秀の母が人質になり、殺害されたといわれることがあります。

 

明智光秀に徹底抗戦する波多野秀治

 

これは平定の最中に反旗を翻した波多野秀治(はたのひではる)が光秀軍を攻撃したことから始まります。信長は激怒。

 

火縄銃(鉄砲)が得意な明智光秀

 

光秀に侵攻を命じます。光秀の攻撃のすさまじさに波多野勢は光秀に降伏。人質として安土城に送られるもそこで磔にされます。この事実を知り、波多野勢に人質に出ていた光秀の母を、残された家臣に寄り殺されたというもの。しかし状況からして光秀の母を人質に出す必要性が薄いことから、これは創作という説が現在は根強いです。ちなみに波多野一族は光秀の猛攻により最終的に全滅させられました。

 

信長からの高い評価・近畿管領?畿内方面軍の成立

細川藤孝

 

1579(天正7)年8月に丹波を平定した光秀は、藤孝とともにその北にある丹後の国も平定します。この働きに信長は光秀をほめたたえています。翌年には丹波一国が光秀のものとなり、近江の所領と加えて34万石の国持ち大名になりました。そして横山城を改築し「福知山城」としています。ここには2年前に光秀の娘を妻に迎えていた明智秀満(あけちひでみつ)が城主となりました。

 

筒井順慶

 

そして信長は光秀に対する評価は非常に高く、この畿内地域を束ねる存在として扱ったことです。同じ国持ち大名だった丹後の藤孝、大和の筒井順慶(つついじゅんけい)は、光秀の寄騎(よりき)として組下大名と扱われます。これは織田軍近畿方面の総司令官のようなもの。近畿管領とも言われています。

 

麒麟にまたがる織田信長

 

とくに当初は藤孝の家臣からスタートしている光秀は、藤孝との立場がここで逆転しています。この頃には秀吉が中国方面、勝家が北陸方面といった具合に、織田軍が天下を統一するために重臣を各地に送って、戦いを繰り広げていました。

 

手紙を読む明智光秀

 

そんな中1581(天正9)年には、明智家中法度5箇条を制定しています。これは光秀家臣団が大きくなったことで、統率のために制定されたもの。具体的には、織田家の宿老・馬廻衆への儀礼、他家との無用な口論や喧嘩の厳禁を求めています。特に後者は違反すると自害もしくは光秀による成敗という大変厳しい物でした。

本能寺の変に至るまで

大軍を率いて攻める武田勝頼

 

1582(天正10)年。この年は本能寺の変が起こる年。その3か月前、信長は武田勝頼との最終決戦に臨み、光秀も従軍。そしてついに武田氏が滅亡します。そして光秀は5月には徳川家康の饗応役を命じられますが、途中で解任されます。そして信長からは中国遠征で毛利相手に苦戦している秀吉の援護を命じられます。

 

敵は本能寺にあり!と叫ぶ明智光秀

 

一旦自領に戻った光秀は、6月に出陣。その軍勢は中国地方に向かうのではなく、信長のいた京都の本能寺に向けられて謀反。本能寺の変が起き、信長と嫡男の信忠が殺されます。明智軍が13,000に対して、信長側は本能寺に小姓などが中心で100人にも満たない数。二条新御所にいた信忠でも1500程度の軍勢しかおらず、流石の信長も何もできませんでした。この本能寺の変についてはなぜ起きたかについては、あまりにも多くの説があり、光秀単独説から黒幕説までいろいろあり、明確な理由はわかりません。

 

非常に極悪な表情をしている豊臣秀吉

 

どうしても歴史は勝者のためにあるため、この後光秀を倒し、天下を取ることになる秀吉が、何らかの改ざんあるいはその事実を抹消している可能性が高いからです。また実は堺に少人数でいた徳川家康を討つように信長から内々に伝えられていたという説があります。すでに光秀は謀反のつもりでいたので、家康を討つふりをして本当に討ったのは信長だったというエピソード。しかしこれも含めて真相は闇の中です。

 

三日天下と呼ばれた十数日

明智光秀を馬鹿にする豊臣秀吉

 

本能寺の変で信長を倒してから、山崎の合戦に敗れて死ぬまでの間が光秀の天下だったということで「3日天下」と呼ばれます。実際には十数日ありました。本能寺の変のあと、光秀はそのまま安土城に入ります。しかし勢多城主の山岡景隆(やまおかかげたか)が、瀬田橋を落とし抵抗しました。

 

安土城 織田信長が作らせた城

 

この修復などのせいで安土城入城が3日遅れたとも伝わります。安土城に入った光秀は、機内方面軍の寄騎だった藤孝や順慶に書状を送り味方になる様に伝えますが、いずれも光秀の思い通りになりません。そして想像以上の速さで、秀吉が中国地方から大返しで戻ってきました。あわただしく出陣した光秀は京都の西の山崎に来ます。

 

中国大返し(豊臣秀吉)

 

この山崎の合戦での秀吉軍は4万近くい軍勢で、数の上では光秀は不利なものの、山崎の地形が狭く3千程度の軍勢しか動けないこと。さらに急遽戻ってきているので、秀吉軍が疲弊しているために長期戦となれば勝算が十分ありました。

 

明智光秀

 

しかし摂津の高山右近らが秀吉側についたため、秀吉軍本隊が突撃するまでもなく、大勢が決まったと伝わります。

 

忙しくて過労で倒れる明智光秀

 

光秀は敗走し、本拠地である坂本を目指します。城に戻れば状況次第で逆転できる可能性はは残されていました。しかし山中を逃亡中に、落ち武者狩りをしていた百姓に刺されて深手を負い、結局自害し果てます。本能寺の変が6月2日で山崎の合戦が6月13日。たった11日間だけの天下人として幕を閉じました。

 

光秀死後の評価

豊臣秀吉が調子に乗っているので内心キレてる柴田勝家

 

山崎の合戦で光秀を討ち取った秀吉は、織田家の家臣の中でも力を持ち、やがて反発した勝家らの反秀吉派と激突。これをことごとく退けます。他の織田家家臣も秀吉の家臣となり、朝廷工作により関白となった秀吉は全国統一に成功します。

 

豊臣秀吉に出世争いで負ける明智光秀

 

この間光秀は「惟任退治記」などにより、主君信長を裏切った謀反人として徹底的に悪く仕立て上げられます。それを元にした書物を元に研究されたため、長く謀反人という評価がつづきました。江戸時代においても、光秀は主君への忠誠を裏切った人物として「極悪人」との評価になっています。

 

酒席で下戸の明智光秀をいじめる織田信長

 

しかし最近の研究では、以前と比べて再評価されております。信長からは織田家の中で最も高い評価を得ていたこと。信長にいじめられるという、心優しいというイメージではなく、信長の命令に忠実で、比叡山の焼き討ちや丹波平定での戦いは残虐だったということ。その代り平定後の丹波の領民には、税の免除などの良政を行ったという事実も判明しています。

 

明智光秀が剣を持って戦っているシーン

 

ときは戦国時代で下剋上の世の中。光秀でなくとも主君を裏切る例はいくらでもあります。また信長が将軍義昭を追放、秀吉が信長死後の織田家を引き立てるそぶりを見せながら、結局自らが天下を取って豊臣政権を樹立した。あるいは家康も秀吉の死後に豊臣政権をつぶしたなど、他の英雄たちも似たことをしています。

 

戦国時代ライターSoyokazeの独り言

soyokaze(ライター)

 

明智光秀のイメージでは信長を討った謀反人として長く伝えられ、光秀を倒して天下を取った秀吉や家康が都合の悪い部分を排除して歴史を作りかえた可能性が高いです。しかし光秀の再評価も行われています。その最も顕著なのが、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公が光秀という事実。それまで謀反人としてでしか扱われなかった、光秀が主役となることで、少しでも隠れた彼の功績が多くの人に知れ渡るでしょう。

 

参考文献:

小泉策太郎『明智光秀』

高柳光寿『明智光秀』

奥村恒次郎『明智光秀』

明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』

井原今朝男『室町期廷臣社会論』

池上裕子『織田信長』

 

関連記事:【麒麟がくる】明智光秀は本当に土岐一族なの?

関連記事:本能寺の変直後の明智光秀の行動は日本史の前例でいうと間違っていなかった!実は『太平記』マニアだった光秀

関連記事:【麒麟がくる】明智光安はどんな人?本当に平和主義者だったの?

 

本能寺の変の特集

 

 

 

はじめての三国志を、もっと読みたい方へ
Google検索であなたの優先ソースに登録しておくと、はじ三の記事が上位に出やすくなります。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事
Soyokaze

Soyokaze

ライター自己紹介: 旧石器から現代史、日本、中国、西洋とどの歴史にも興味があります。 小学生のころから歴史に興味があり、歴史上の偉人伝を呼んだり、 NHKの大河ドラマを見たりして歴史に興味を持ちます。 日本のあらゆる歴史に興味を持ち、旧石器や縄文・神話の時代から戦後の日本までどの時代も対応可能。 また中国の通史を一通り読み西洋や東南アジア、南米に至るまで世界の歴史に興味があります。 最近は、行く機会の多いもののまだあまり知られていない東南アジア諸国の歴史にはまっています。 好きな歴史人物: 蘇我入鹿、明智光秀、石田三成、柳沢吉保、田沼意次(一般的に悪役になっている人たち)、溥儀、陳国峻(ベトナムの将軍)、タークシン(タイの大王) 何か一言: 勝者が歴史を書くので、歴史上悪役とされた敗者・人物は本当は悪者では無いと言ったところに興味を持っています。

-戦国時代 (日本)
-