武田義信とはどんな人?甲斐武田の後継者を襲った謀反劇


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武田義信とはどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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武田義信年表

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

・天文7年(1538年):甲斐国の戦国大名、武田晴信の嫡男として誕生。

・天文19年(1550年):元服し、駿河の大名今川義元の娘を正室に迎える。

・天文22年(1553年):12月29日将軍の足利義藤(義輝)から通字である

「義」の偏諱を受けて太郎義信と名乗る。

・天文22年(1553年):15歳の初陣で信濃国佐久郡の知久氏攻め反乱を鎮圧。

・永禄4年(1561年)9月:上杉謙信の本陣に800の兵を率いて奇襲を掛ける。

・永禄8年(1565年)10月:信玄暗殺を企てたとして甲府東光寺へ幽閉。

・永禄10年(1567年)10月19日には東光寺で死去。享年30歳。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

内容に納得がいかないkawauso様

 

武田義信は青年らしい真っすぐな心の持ち主だったのかも知れません。織田に押されて弱った今川を救うどころか、今だ!うーみーー!とばかりに襲い掛かった父、信玄に対し幻滅し、それが憎悪に変わっても不思議はないでしょう。

 

義信幽閉の前後に信玄は国衆や部下からも武田に忠誠を誓うという起請文を取っているので、信玄の変心に違和感を持った配下は少なからずいたと考えられます。でも、弱肉強食の戦国の習いを考えると、信玄の行動も一律に非難も出来ないではあるんですよね。

 

参考:Wikipedia

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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