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この記事の目次
武田義信年表
・天文7年(1538年):甲斐国の戦国大名、武田晴信の嫡男として誕生。
・天文19年(1550年):元服し、駿河の大名今川義元の娘を正室に迎える。
・天文22年(1553年):12月29日将軍の足利義藤(義輝)から通字である
「義」の偏諱を受けて太郎義信と名乗る。
・天文22年(1553年):15歳の初陣で信濃国佐久郡の知久氏攻め反乱を鎮圧。
・永禄4年(1561年)9月:上杉謙信の本陣に800の兵を率いて奇襲を掛ける。
・永禄8年(1565年)10月:信玄暗殺を企てたとして甲府東光寺へ幽閉。
・永禄10年(1567年)10月19日には東光寺で死去。享年30歳。
戦国時代ライターkawausoの独り言
武田義信は青年らしい真っすぐな心の持ち主だったのかも知れません。織田に押されて弱った今川を救うどころか、今だ!うーみーー!とばかりに襲い掛かった父、信玄に対し幻滅し、それが憎悪に変わっても不思議はないでしょう。
義信幽閉の前後に信玄は国衆や部下からも武田に忠誠を誓うという起請文を取っているので、信玄の変心に違和感を持った配下は少なからずいたと考えられます。でも、弱肉強食の戦国の習いを考えると、信玄の行動も一律に非難も出来ないではあるんですよね。
参考:Wikipedia
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