織田信長に仕えた森さんと言えば、森蘭丸が最初に思い浮かびます。しかし、実際、森家は蘭丸の時代に隆盛を迎えたのではなく、その父である森可成の功績による蓄積が存在していました。
今回は、織田軍壊滅の危機を救い戦死した堂々たる忠臣、森可成を解説します。
この記事の目次
源義家の七男に連なる名門
森可成は、大永3年(1523年)森可行の子として尾張国葉栗郡蓮台に生まれます。
森家は、武士のカリスマ源義家の7男、陸奥七郎義隆の子孫と伝わり(信憑性に疑問もある)直接の祖は義隆の3男、岩槻頼隆の2男、森頼定に始まるという名門の出身でした。その血筋の為、元々は織田家ではなく美濃守護職の斯波氏に仕えていたそうです。
しかし、主君の斯波氏が美濃のマムシ斎藤道三に追放されたので、森可成は尾張まで移動し、そこで織田信長に仕える事になりました。
信長の手足として尾張統一戦争に参加
森可成は、槍の名手で関兼定の銘がある十文字槍の使い手で武勇の誉れが高く「攻めの三左」の異名を取りました。その頃は、まだ織田家の宿老の柴田勝家でさえ、織田信勝の配下にいた頃で信長は武勇名高き、攻めの三左の加入を喜んだようです。
可成も信長の尾張統一に尽力し、清須攻めでは織田信友を討つ功績を挙げ、弘治2年(1556年)に美濃で道三と義龍の間で政変が起きると信長の舅である道三を支援、信長と弟の織田信勝が激突した稲生の戦いや、今川義元と信長が激突した桶狭間の戦いにも参加しました。
信長上洛、姉川の戦いでも奮戦
尾張平定が終わると森可成は、美濃攻略に出陣して武功を挙げます。その敵は斎藤氏だけではなく、信濃から東美濃に侵攻してきた武田勢もいました。
永禄8年(1565年)に可成は美濃金山城を与えられて城持ち武将になり、永禄11年(1568年)の信長上洛作戦では、柴田勝家と共に先鋒を務め、近江守護の六角氏が守る勝竜寺城を陥落させました。
信長上洛後には、近江宇佐山城を与えられ、元亀元年(1570年)に起きた姉川の戦いにも参加。この時には、浅井氏の猛将、磯野員昌の織田軍本陣への猛攻を食い止めた武将の中に森可成の名前があります。
休む間もなく戦い続ける猛将、森可成、このまま信長を天下人の地位まで押しあげてくれると誰もが思っていた時、予想外の危機が可成を襲います。
浅井・朝倉の大軍が京都を狙う!
摂津で三好三人衆が籠る野田・福島の砦を大軍で包囲して悠々と攻めていた織田信長に危機が訪れます。
それまで信長に対しては日和見を決め込んでいた大坂の石山本願寺が三好三人衆に加勢して攻め込んできたのです。さすが戦国の寝業師、三好三人衆と言った所でしょうか。
これだけなら信長も、「フン大坂の坊主共が小癪な!」で終わりましたが、本願寺が敵対した事を勝機と見た浅井、朝倉連合軍3万が京都を窺い坂本方面に出撃したのです。
かくして、織田軍の主力が摂津で戦っている間に、京都が浅井、朝倉軍に占領される危険が生じます。ですが、情報網が発達していない戦国時代の事、近江で大ピンチが起きている事を信長はまだ知りませんでした。
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