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この記事の目次
森可成、浅井、朝倉、比叡山の大軍を相手に奮戦し討死
宇佐山城主の森可成は、ただちにこのピンチを知らせる為に信長に使者を派遣し、自身は浅井・朝倉連合軍3万の進撃を食い止めるべく、1千の兵力で出撃して坂本に陣取り街道を封鎖します。
そして、9月16日に緒戦において浅井・朝倉連合軍3万を撃退する武勇を見せます。しかし、ここで、さらなるバッドニュースが可成を襲いました。本願寺顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も浅井・朝倉連合に合流、9月20日にはさらなる大軍が坂本に殺到したのです。
それでも、可成は先鋒の朝倉景鏡を押し返す奮闘を見せますが、浅井対馬、浅井玄蕃の2千の軍勢に側面攻撃を掛けられ、さらに、朝倉中務、山崎吉家、阿波賀三郎、浅井本隊まで加わったので支えきれず、信長の弟、織田信治、近江国人、青地茂綱と共に討死しました。
森可成の奮戦が信長を救った
こうして坂本の森可成軍を壊滅させた浅井、朝倉、比叡山連合軍は、同日に宇佐山城に攻め掛かります。しかし、森可成の死を無駄にすまいと家老の各務元正が奮戦して持久しました。
近江での事態の急変を知った信長は、摂津で戦ってる場合ではないと、三好三人衆と不利な条件で和睦して摂津から織田軍主力を撤退し坂本へと転進します。結局、宇佐山城は信長軍が戻ってくる9月24日まで持ちこたえ、不利を悟った浅井、朝倉連合は比叡山に退却していくのです。
森可成の死が比叡山焼き討ちに繋がる
信長は、可成の奮戦により織田軍は壊滅を免れた事実を察し、深く感謝します。同時に、火事場泥棒的に浅井、朝倉に連合して攻撃を仕掛けてきた延暦寺を強く憎んだそうです。
その後も延暦寺は浅井、朝倉に協力する事をやめず信長に敵対したので、信長は比叡山焼き討ちの強硬策に転じたのですが、その契機は森可成の討死にあるとも言われます。
また、森可成と比叡山延暦寺には、浅からぬ因縁がありました。可成の先祖である源義隆は比叡山の僧兵の矢に倒れたと言われていて、因果が巡って来たとも考えられていたようです。ただ、後年の比叡山焼き討ちには、森可成の息子達は参加していないそうです。
森可成の息子達
森可成は子だくさんであり、息子達も優秀でそれぞれ織田家に仕えました。
長男の森可隆は早くに討死したものの、家督は鬼武蔵の異名を受けた次男の森長可が継いで奮戦し、三男には信長の小姓として有名な森蘭丸(森成利)4男が森長隆、5男が森長氏、6男が森忠政と多く名前が残ります。
森蘭丸以下、多くは本能寺の変で戦死していますが、もし本能寺の変が無ければ、それぞれの兄弟が結束して織田幕府森派のような強力な派閥が出来たかも知れません。
森可成の年表・経歴
・大永3年(1523年):森可行の子として尾張国葉栗郡蓮台に誕生。
・天文23年(1554年):主家の土岐氏が斎藤道三に追放された為、尾張で織田信長に仕える
・弘治元年(1555年):清須攻めで織田信友を討つ
・弘治2年(1556年):斎藤道三と斎藤義龍が長良川の戦いを起こすと信長について道三を援護。同年8月の稲生の戦いで信長の弟、織田信勝の軍勢と戦い破る。
・永禄元年(1558年):浮野の戦いで尾張上四郡の守護代、織田信安を討つ
・永禄3年(1560年):桶狭間の戦いに参戦
・永禄8年(1565年):美濃攻略戦に参加し、美濃金山城を与えられる
・永禄11年(1568年):信長が足利義昭を奉じて上洛する軍に参加し、勝竜寺城を柴田勝家と先陣を努めて落とす
・元亀元年(1570年):宇佐山城を築城、姉川の合戦で磯野員昌の突撃をくい止める武功を挙げる。
・元亀元年9月:京都狙い越前と近江から南下してきた浅井、朝倉軍と比叡山の大軍を1千の手勢で坂本でくい止め戦死。
戦国時代ライターkawausoの独り言
森可成は、武勇ばかりでなく行政官としてもすぐれていた事が多く残る発給状から分かります。また性格も社交性があり、強いだけで性格が破綻している事もないので、粗暴な成り上がり小姓や他所陣営からの引き抜き武将が多く、人事に不安が多かった初期の信長陣営では、安心して仕事を任せられる数少ない人材だったようです。
信長によりも11歳年長である事も、信長に安心感を与えた要因だった事でしょう。
参考:Wikipedia
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