呉の大黒柱孫権、その晩年の優柔不断ぶりを見ると、さぞかし好き放題な事をしていたんだろうなと考えてしまいますが、意外にも孫権は大酒を飲んで部下にアルハラしたり、虎を狩っていれば満足だったのか、大土木工事のような国費を傾ける贅沢には消極的でした。
そればかりか孫権は、いまにも倒壊しそうな危険な宮殿に長年住んでいたようなのです。
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崩壊しそうなボロ宮殿に36年住んでいた孫権
孫権は、西暦211年、重臣張紘の進言を入れて、本拠地を丹徒の京城から秣陵へと移転させます。翌年に築いたのが石頭城で、それに合わせて地名も建業に改称しました。
しかし、当時の孫権は行車騎将軍・徐州牧という後漢の臣の肩書だったので皇帝並みの壮大な宮殿等は作れず、飽くまでも将軍府、行政庁として堅牢な木材は使わずに質素に通しました。
そして、或いは孫権も予想だにしなかったかも知れませんが、孫権は建業宮と名付けたこの粗末な宮殿に9年の遷都期間を挟み、何と!通算36年間も住み続けたのです。
もう限界だ!孫権は建業宮のリフォームを決断
21世紀の住居だって、36年も経過すれば、どこかしらガタが来て当たり前です。ましてや、鉄筋コンクリートなどない3世紀の木と土壁の建物が36年間の風雪にさらされたらどうなるか?想像に難くありませんよね?
西暦247年の3月、虎でさえ恐れないアル中ヒゲダルマも、流石に老朽化した宮殿の下敷きはゴメンと考えたのか、、
「建業宮は、朕が京城から来た時に造った将軍府だから、柱も全部細いし今になったら全部腐って朽ちてしまい、いつ壊れるかヒヤヒヤして、オチオチ深酒もできない。そろそろリフォームを考える時期だろう?」と言い出したのです。
孫権がヒヤヒヤしているなら、より繊細な神経を持つ部下は、とっくに生きた心地はしなかったはずで、やれやれやっと安全な宮殿に住めると思いきや、ドケチ孫権は、家臣の斜め上を行く提案を出してきました。
ドケチ孫権が考えたリフォーム案とは?
部下がホッとしていると、孫権は渋い顔をして、
「だが、まだ乱世が治まったわけでもないので、とりあえず武昌宮の木材と瓦を建業に移動してリフォームするのがいいだろう」と言い出します。
これには、皆、驚き呆れました。だって!武昌宮は西暦221年に孫権が築かせた宮殿であり、建業宮ほどではないにしろ、軽く築25年を超えたボロ宮殿だったからです。
そこで、孫権の家臣は
「おそれながら武昌宮は、既に築28年になり、その資材は使用に耐えないと思われます。ここは周辺の長官たちに命令を下して、新しく木材を調達する方が長い目で見れば、コスパが良いのではないでしょうか?」
みたいな言い方で孫権の無謀リフォームを諫めました。
孫権のケチなのかエコなのかよく分からない言い分も、分からなくはないです。しかし、リフォームの基本は、修繕する事で建物を長持ちさせる事ですから、すでに朽ちている資材を、もうじき朽ちる資材と取り替えてもあまり意味はないように思えます。
孫権、聖人禹を持ち出して押し切る!
しかし、晩年の孫権は言い出したら聞きません。自分が良いと思ったリフォーム計画にNoを突きつけられた孫権は、、
「聖人禹は粗末な宮殿を美しいとしたものだ。今、兵乱は収まらないし、民百姓には重労働が課されている、この上、もし新宮殿を築く為に木材を調達させるとなれば、農業や養蚕の邪魔をする事になる。武昌宮をバラしてリフォームすれば良い。はい決定!」
聖人禹まで持ち出してリフォームを正当化する孫権ですが、宮殿が粗末なのと古くて朽ちているのはちょっと違うと思うんですけどね、、ただ、何にしても、住んでいるのは孫権なので、
「うるさい!俺が良いと言えば良いんだ!」と言われると、群臣たちは反対できませんでした。
武昌宮の中古資材を使ってリフォームされた建業宮は太初宮と命名され、248年の3月に完成、西暦267年6月、呉のラストエンペラー孫晧が、建業に新しい顕明宮を建てるまで、19年間という長い歳月使用され続けるのです。
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