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この記事の目次
虎御前山砦を襲撃するも良いトコ無し
元亀3年(1572年)織田信長は浅井の本拠地、小谷城を包囲し、虎御前山、八相山、宮部の各砦を整備しはじめます。
浅井長政は、これを受けて朝倉氏に救援を要請。
「織田方は、長島の一揆勢に道路を封鎖され兵糧攻め中で虫の息ですから、もう一息で滅ぼせますぞ!」
こんなウソ情報を添えたので、大いに乗り気になった朝倉義景は1万5千の兵力で出陣、これには山崎吉家も従軍しました。
ところが、進軍してみると織田軍は虫の息どころかピンピンしており、小谷城は風前の灯でした。義景は恐れて小谷城までは行かず、大嶽という山に登り砦を築いて持久します。
それを見た織田信長は、足軽達に大嶽砦をかく乱するように命じ、ゲリラ戦を開始、足軽達は毎日夜襲をかけては、朝倉方の旗指物や太刀、鎧兜、敵兵の首を2つ、3つと取ってきたので信長は褒め、手柄に応じて恩賞を与えました。
さらにしばらくすると、朝倉家年寄衆の前波吉継が父子3人で信長に寝返り、翌日には富田長繁、戸田与次、毛屋猪助が寝返ります。
寝返りの連続に、いよいよ何も出来なくなった義景は戦況を傍観するしかなく虎御前山の砦は完成しました。
やる事がなくなった信長は、堀秀政を使者にして大嶽砦に派遣し、
「越前から遥々出陣してこられたのに、何もしないで帰るのも口惜しかろう?
どうだ?日時を決めて一戦せんか?」と挑発。
信長になめられきった義景ですが、これも黙殺、朝倉勢の士気はさらに低下しました。
織田信長が岐阜に戻ると、虎御前山で留守を守る羽柴秀吉に対し、朝倉軍と浅井軍は攻撃を仕掛け、虎御前山から宮部まで伸ばした築地塀を引き倒そうとしますが、これも羽柴秀吉の奮戦で失敗、空しく越前に引き上げる事になります。
この間、山崎吉家が何かしたという記録はないですが、情ない義景を見捨てず、付き従っていたわけですから忠義の士ではあると思います。
信玄上洛!最後のチャンス
信長に敗れ羽柴秀吉に敗れ、小谷城の次は越前一乗谷かと義景がへこんでいた時、朝倉氏に最期のチャンスが到来します。
元亀3年10月、甲斐の虎、武田信玄が足利義昭の呼びかけに応じ西上作戦を開始、立ちはだかる徳川の城を次々と落として進撃してきたのです。
ここで、信玄は朝倉義景に共同作戦を提案し義景は応じました。一転窮地の織田信長は、信玄に備えて岐阜に戻り、義景は浅井長政と呼応し、小谷城の包囲を解こうと再び虎御前山砦を攻撃しますが、これまた大敗します。
そして、同年12月3日には、「部下が疲れているし越前は雪が深いので、一度落ちまーす」と無断で一乗谷に退却してしまったのです。この自分勝手ぶりに信玄が激怒します。
「なめてんのか!この腐れネギ坊主、てめえのコロ助みたいなちょんまげ引きちぎって、はじめてのチュウ歌わすぞゴルァ」
……ぐらいの罵声を浴びせてやりたい所ですが、そこは武田信玄公、52歳のナイスミドルです。
お互いに独立した戦国大名同士で、あまりに厳しく責めてヘソを曲げられたら全てが水の泡ですから冷静に書面を送り抗議しました。
私の軍は徳川家康を撃破したので、ご安心ください。
さて、聞くところによると、あなたの軍が戦線を離れて越前に帰国しようとしているとか、
兵の疲労を心配するのも大将の務めですが、織田信長を倒す千載一遇のチャンスを逃しては、
どこに功績を残せましょう?
判断を間違ってはいけません。
それでも義景は一乗谷に引き込んで出て来ず、しびれを切らした信玄は、翌元亀4年2月、本願寺顕如に手紙を送り、義景のバカ野郎の尻を叩いてくれと説得をお願いしています。
こうして奇跡は起きました。元亀4年3月、朝倉義景は一乗谷を出陣、近江の国人朽木元綱の道案内を受けて、敦賀まで進撃したのです。山崎吉家も共に出陣し粟屋勝久の守る佐柿国吉城に付け城を築いて城攻めしています。
ところが、残念!ちょっと遅かったぁ!同年4月、上洛途中の武田信玄は病死し、武田軍は甲斐へUターンしてしまいます。
危機が去った信長は大喜びで、足利義昭を京都から追放、三好三人衆や三好義継を蹴散らしてしまうのです。もちろん、朝倉義景も山崎吉家も空しく一乗谷に戻るしかありませんでした。
もろくも崩れ去る朝倉軍の悲惨
天正元年(1573年)8月8日、織田信長は3万の軍勢を率いて近江に侵攻します。小谷城の次は一乗谷だと分っている朝倉義景も浅井を救う為に出陣しようとしますが、すでに重臣は義景を見限っていました。
朝倉家同名衆の朝倉景鏡、重臣、魚住景固が疲労で出陣できないと義景の命令を拒否したのです。
しかし、義景は自分直属の2万の軍勢で出陣を強行、それに付き従ったのが朝倉一門の朝倉景健、河井宗清、そして山崎吉家でした。
朝倉軍は以前に築いた大嶽砦に入りますが、8月12日、折からの暴風雨を利用し、織田軍は奇襲を敢行、無防備な朝倉軍は敗退し砦を追われます。さらに、丁野山砦まで陥落し、義景は長政との連携も不可能になりました。
ここで朝倉義景は一乗谷に帰る事を決断しますが、この判断は信長に読まれていて、あっという間に追いつかれ田部山の戦いで朝倉軍は敗退し柳瀬に逃走します。この敗走ぶりは、あまりにも惨めで越州軍記によると、
義景が立ち出でて馬に乗ると、周囲は右往左往に騒ぎ、下人は主を捨て子は親を捨て我先にと逃げ出した。
この間、大雨が降り、坂は泥だらけで足がもつれ、谷は泥だらけで兜の毛も見えない
泥に塗れて足腰も立たず、蜘蛛の子を散らすような有様で、その道の18キロあまりにわたり、
馬や鎧兜が遺棄されて足の踏み場もない。
戦の習いとはいえ、勝った側はネズミも虎になり、利を失えば虎もネズミになるもので、
草木が揺れても敵襲に見え、全てに怯えながらしどろもどろに退いた。
これは、もう壊滅というヤツですが、それでも信長の追撃は止みません。なんとか一乗谷まで戻らねば、その一心で朝倉義景は山崎吉家に殿を命じます。
この壊滅状態での殿とは、死ね!というのと同じですが忠臣、山崎吉家は命令を謹んで受けます。その場所は刀禰坂という坂でした。
山崎吉家刀禰坂で討死
刀禰坂の戦いはどんなものだったのか?
信長公記で見てみましょう。
朝倉義景は、主だった部将を率いて敦賀目指して敗走した。これを織田軍は追撃し、すぐさま刀禰山の頂上で追いついた。
朝倉方の忠義の武士は引き返しては戦い、また引き返しては戦い、懸命に防戦したが遂に防ぎきれなかった。
敦賀まで43キロメートル、この間を追撃して討ち取った首の数は3000を超えた。
この後、太田牛一は、討ち取った首で見知った人間の名前を挙げていますが、朝倉氏同名衆の名前に混じり、山崎新左衛門尉、すなわち山崎吉家の名前があります。刀禰坂では、吉家の弟、吉延や多くの兄弟が戦死しました。
あれだけの敗走をしながら吉家は主君、朝倉義景を守り抜き、一族のほとんどが敦賀までの道のりに屍を曝したのです。忠義の武士山崎吉家らしい、あっぱれな最期でした。
山崎吉家と明智光秀
ところで、山崎吉家には甥にあたる山崎長徳という人物がいました。彼は天文21年(1552年)に誕生し、朝倉氏が織田信長に滅ぼされると明智光秀に仕えています。
その後、明智光秀に従い、本能寺の変や山崎の戦いに参加し光秀が羽柴秀吉に滅ぼされると、越前の柴田勝家に仕えました。
天正11年の賤ヶ岳の戦いでは佐久間安政の下で戦い、勝家が死去すると前田利家、さらに前田利長に仕えて関ケ原の戦いでは東軍に属して加賀国大聖寺城の山口宗永、山口修弘親子を討ち取るという功績を挙げます。
この功績により1万4000石の所領を与えられ、大坂の陣にも冬・春の両陣に参戦しています。最初に明智光秀に仕えたという事は、山崎吉家と明智光秀には、なんらかの繋がりがあったのかも知れませんね。
麒麟がくるライターkawausoの独り言
山崎吉家を演じる榎木孝明さんと言えば、薩摩示現流の達人で1998年のNHK大河、毛利元就では、渡辺勝を演じて、十人の敵兵に槍で刺されて持ち上げられて落とされ、さらに起き上がるという壮絶な殺陣を演じています。
現在64歳の榎木孝明さんですが、壮絶な撤退戦の刀禰坂の戦い、すんなり殺されるとは思えません。凄まじい戦いぶりを見せつけ、明智光秀の心に爪痕を残すのではないでしょうか?
参考文献:信長公記
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