【戦国の人気者】忍者の戦場での重要任務とは?


 

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テレビを視聴するkawauso編集長

 

kawausoは藤子不二雄アニメ世代なので、『ドラえもん』はもちろん、『プロゴルファー猿』や、『忍者ハットリくん』がお馴染みなんですが、中でもハットリ君は好きでドラえもんに匹敵する面白さだと思っています。

 

そんな忍者が活躍したのは、戦乱の戦国時代なんですが、この忍者の戦場での重要な任務ってご存知でしたか?

今回は磯田道史(いそだみちふみ)著 歴史の愉しみ方より、寒そうな戦場での忍者の重要な任務を紹介します。

 

忍者の重要任務「瀬踏み」

戦う忍者

 

戦場における忍者の重要任務、それは瀬踏みです。平地における軍隊の行軍において、指揮官が非常に神経を使うのは渡河でした。

 

孫子にも、敵が河を半分渡ったところで攻撃せよとあるように、河を渡る時の軍隊は行動力が制限され、同時に統制が取りにくくなります。ましてや、船を使わないと渡れない河などあれば、川の向こう岸に待ち構えている敵に対して、どうしても対応が遅れてしまいます。

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

そこで可能なら、船など使わず徒歩で渡れる川のポイントを探したいわけで、軍隊の渡河(とか)ポイントを探す為に忍者がズブ濡れになりつつ、浅瀬を探すのを瀬踏(せぶ)みと言います。浅瀬が探せないと、軍隊は攻めも退却でも困難が伴うので、非常に重要な任務です。

 

また瀬踏みを少しでも楽にする為、忍び道具も整っていて、浮き輪はなめし皮製で緑色に塗装して、保護色にされ、潜水具や水中盗聴器まで開発していたのだとか、、

 

どこまでも体力と忍耐力勝負に見える忍者ですが、道具で補える所は補う合理的な面が垣間見えます。実際は案外にハイテクな人々だったのかも知れませんね。

 

超寒かった大坂冬の陣

名古屋城

 

しかし、夏場ならともかく、冬に川に入る忍者の状況は想像しただけで寒そうです。実際、大坂冬の陣の時、池田忠継(いけだただつぐ)を藩主とする岡山藩の忍者は、極寒の淀川に入り見事に浅瀬を発見する大手柄を立てました。

 

この時には、忍者の労苦に報いるべく、岡山藩の家老が焚火をして寒さに震える忍者を迎え、その苦労をねぎらったのだそうです。忍者だって人間ですから、これくらいは気を使ってやってやらないと、忠誠心が落ちて、動きが鈍くなると考えての配慮だったんですかね。

 

はじめての戦国時代

 

忍者使いの荒い権現様

服部半蔵

 

忍者と言えば、徳川家康が抱えていた伊賀忍者ですが、権現様はかなり人使い、ならぬ忍者使いが荒かったようです。

 

例えば、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いの途中、尾張蟹江城(おわりかにえじょう)合戦では、伊賀忍者は本城の櫓下(やぐらした)に張り付く事を命じられ、籠城する滝川勢が櫓から鉄砲で撃たれまくり、服部源兵衛(はっとりげんべい)以下、多くが討死と記録されています。

 

火縄銃を撃つ侍(鉄砲)

 

これはひどいですね、石垣をよじ登るのに必死の伊賀忍者に対し、上から鉄砲で狙い撃ちなんて、ほとんど射的と同じです。家康は、これを見て不憫に思ったのか、鉄の盾30枚を伊賀忍者に与えたそうですが、そんな便利なモノがあるなら最初から出せって話ですよ。

 

ワーキングプアな伊賀忍者

村人(農民)

 

また伊賀忍者は、ケチの家康に雇用されていたせいか給与が安く、同じく幕府に仕えていた甲賀忍者が40石から70石貰っていた頃、1人平均10石だったそうで、これを銭ではなく、土地で受け取っていました。

 

現在の貨幣価値だと年収100万円位で、喰えない忍者は自分で畑を耕していたとか、伊賀忍者が報われない感じがするのはkawausoだけでしょうか。

 

江戸時代に伊賀忍者が集団で済んでいたのが、今の表参道、原宿の辺りなのだそうですが、ファッションと最新流行の街に地味な忍者が住んでいたとは面白いです。

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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