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この記事の目次
天草と島原の一揆勢が原城に籠城
島原に呼応して、数日後に肥後天草でも一揆勢が蜂起、天草四郎を総大将に本渡城などの天草支配の拠点を攻撃し、11月14日に本渡の戦いで富岡城代の三宅重利を討ち取りました。
ちなみに、この三宅重利、明智光秀の重臣、明智秀満の子でキリシタンでしたが、その頃までには棄教し今は寺沢家に仕えて、ここで討ち死にしたのです。
勢いづいた一揆軍は、唐津藩兵が守る富岡城を総攻撃、北の丸を陥落させ、落城寸前まで追い詰めますが、本丸の防御が固く落城は不可能でした。やがて、幕府の命令を受けた九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った天草の一揆軍は、背後を撃たれる不利を考えて撤退。有明海を渡り、島原半島に移動し、島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城、原城址に籠城します。
ここで、島原と天草の一揆勢が合流、その総数は37000名に膨れ上がりました。一揆勢は大急ぎで原城址を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬や食糧を運び込んで討伐軍の攻撃に備えます。しかし、どこからも援軍の来るアテがない籠城戦であり、この段階で一揆勢は追い込まれていたとも言えました。
幕府軍相手に奮戦するも兵糧攻めに敗れる
島原の乱を知った幕府は、九州諸大名を率いる上使として板倉重昌、副使として石谷貞清を派遣しますが、寄せ集めの九州諸大名の討伐軍に対し、一揆軍は決死の覚悟である為に士気が高く何度攻めても敗走するばかりでした。
事態を重く見た幕府は、2人目の討伐上使として老中松平信綱、副将格に戸田氏鉄を派遣する事を決定しました。しかし、松平信綱に手柄を奪われる事を恐れた板倉重昌は、寛永15年1月1日(1638年2月14日)信綱到着前に乱を平定しようと再度総攻撃を行います。
ところが、それは策も何もないただの突撃であり、連携不足もあり4000名の損害を出した上に板倉も鉄砲の直撃を受けて戦死しました。板倉戦死の報告を受けた幕府は、増援として水野勝成と小笠原忠真に出陣を命じます。
さらに、新たに到着した松平信綱率いる九州大名の援軍が到着すると幕府討伐軍は12万人に膨れ上がります。
知恵伊豆と呼ばれた信綱は、原城に忍者を潜り込ませて、兵糧の状況を見て、これが残り少ないと見ると力攻めを避けて、兵糧攻めに転じます。結局2カ月余りの兵糧攻めの後、1638年の4月7日に幕府軍の総攻撃があり、兵糧が尽きた一揆軍は支える事が出来ずに城は落城。天草四郎は殺害され、反乱に参加した領民は、そのことごとくが殺害されるという過酷な処置が取られました。
実物の天草四郎はどんな姿?
天草四郎は時代劇などのイメージでは、前髪を残して髷を結った美少年で、西洋のマントを羽織り、ビラビラした襞襟をつけて、首からは十字架を下げているというイメージです。これは事実ではなく、明治時代以後に、天正遣欧使節団の4人の少年の衣装や使節団を率いた支倉常長の服装を参考にして想像で造られたものでした。
では、実際の天草四郎は、どんな姿をしていたのでしょうか?
たまたま天草一揆に巻き込まれた久留米城下の洗町から来た商人の与四右衛門が、一揆勢3500人が富岡城代の三宅重利を討ち取る合戦を見ており、そこで、天草四郎の姿を見たとして、幕府側に次のように証言を残しています。
キリシタン軍は14日、本渡へ陸と海から攻め寄せる。天草四郎は船で本渡町茂木根に上陸し馬に乗る。その時の出で立ちは、
「白い絹の着物を着て、袴を穿いて、頭には苧を三つ組にしてあて、緒をつけのど下にてとめ、額には小さな十字架を立てていた。手には御幣を持って、一揆軍を指揮していた」
このように与四右衛門が見た天草四郎は、白い絹の着物に袴、額には小さな十字架を立てているものの、頭には巫女のように苧を三つ組にして乗せて紐で結び、手には神主のように御幣を持つなど、なんというか巫女と神主と武士の装束の中間みたいな感じに見えます。正直言って、カッコイイとは言えないいで立ちです。
これがリアルと言われても、多分、映画やドラマの天草四郎は、マントに襞襟にロザリオを下げた美少年の姿で、これからしばらくは出てくるかも知れませんね。
日本史ライターkawausoの独り言
驚くべき事に幕府軍は、総大将、天草四郎の顔形さえよく知らず、年の頃、16歳、17歳の少年の首が幾つも届けられても判別出来ず、人質にしていた四郎の母が、肥後細川藩士、陣佐左衛門が持ってきた少年の首を見て泣き崩れた事から、その首を四郎と断定したそうです。
もし、四郎が実質的な指導者なら、幕府ももう少し正体把握に努めそうですから、本当に象徴でしかなく、実際の作戦指揮は大人に任せていたのかも知れません。でも、逃げたのではなく討ち取られたのですから、一揆軍の兵士としてキリスト教の信仰に殉じた事に変わりはないですね。
参考:Wikipedia
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