天草四郎とはどんな人?キリシタンのカリスマ島原の乱に散る

2020年8月31日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

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おとぼけ(田畑 雄貴)

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天草四郎

 

天草四郎(あまくさしろう)は、江戸時代初期のキリシタンで、島原の乱における一揆(いっき)軍の最高指導者とされています。

 

本名は益田四郎(ますだしろう)(いみな)時貞(ときさだ)と言い、最初の洗礼名はジェロニモでしたが、一時は表向き棄教(ききょう)をしていたせいで島原の乱の時にはフランシスコの洗礼名に変わっていたそうです。

 

16歳の若さで死んだとも言われる天草四郎ですが、彼は一体どうして島原の乱の指導者になったのでしょうか?

 

生没年不詳 天草諸島の大矢野島で誕生

戦国時代の武家屋敷b

 

天草四郎については、生年が不明で何歳で死んだか定かではありません。恐らく江戸初期にキリシタン大名小西行長(こにしゆきなが)の遺臣でキリシタンの益田好次(ますだよしつぐ)と、同じくキリシタンの母よねの間に嫡男として誕生したと考えられます。

 

出身地は、天草諸島の大矢野島(おおやのじま)と言われますが、肥後国宇土郡江部村(ひごのくにうとぐんえべむら)とも長崎出身とも言われ定かではありません。天草四郎の母の陳述によると、四郎は肥後国宇土郡で成長し、学問修行のために何度か長崎を訪れ、一揆の直前に父に伴われ天草に移ったとされています。四郎は長崎でキリシタンに入信したそうです。

 

どうして一揆の指導者になったのか?

麒麟を求める農民たち

 

天草四郎の生涯についてはほぼ不明ですが、生まれながらに人を()きつけるカリスマ性があり、経済的にも裕福であったため、学問と教養を身につけていたようです。

 

日本史上最大の一揆の総大将となった16歳の天草四郎

 

その事から、早くから神童という評判があり、過酷な年貢に苦しめられていた天草や島原のキリシタン達から救世主として崇められ一揆のシンボルとして祭り上げられたのではないかと考えられています。

 

ですので寂しい話ですが、実際の戦争の指導は、父の益田好次や大人達が行い、四郎は、指導部の方針を一般のキリシタンに伝える広報のような存在だったかも知れません。

 

はじめての戦国時代

 

島原の乱の背景

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

では、天草四郎が一揆軍を率いる事になった島原の乱の経緯について簡単に解説します。

 

島原の乱と言うのは、松倉勝家(まつくらかついえ)が領する島原藩の肥前島原半島(ひぜんしまばらはんとう)寺沢堅高(てらざわかたたか)が領有する唐津藩(からつはん)の飛び地、肥後天草諸島(ひごあまくさしょとう)の農民が合流して起こした反乱です。

 

有馬晴信

 

島原は元々、キリシタン大名、有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んでした。しかし、慶長19年(1614年)に有馬氏が領地替えで去り、大和五条から松倉重政が入った事で島原のキリシタンを苦難が襲います。

 

松倉重政は非常な見栄っ張りで、幕府の歓心を買い、より出世しようと飽くなき野心を持つ人物であったようで、江戸城改築の仕事を積極的に引き受け、4万3千石の小大名なのに10万石規模の立派な島原城を築城して、それらの費用を全て年貢として農民から徴収。

 

さらに検地を行って実際の倍の石高を弾き出して毎年過酷な年貢を納めさせました。

名古屋城

 

それだけでも、酷い話ですが、寛永2年(1625年)徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘された松倉は、それまでの緩やかな対策から一転して過酷な処置を取り、キリシタン及び、年貢を払えない農民に過酷な拷問を科しました。もう一方の、天草の寺沢堅高も似たような悪辣さで、富岡城を築いて代官や城代を送り過酷な搾取とキリシタン弾圧で領民を苦しめます。

疫病が蔓延している村と民人

 

過酷な取り立てに対し、島原の領民は武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場にあった旧有馬氏の家臣の下に組織化され、肥後天草でも、小西行長・加藤忠広(かとうただひろ)の改易により大量に発生していた浪人たちを中心に一揆が結ばれていました。

 

こうして、島原の乱の首謀者たちは湯島にて会談を持ち、キリシタン信徒の間でカリスマ的な人気を持っていた当時16歳と伝わる天草四郎を一揆軍の象徴として担ぎ決起する事を決めます。

 

島原の乱勃発

一向一揆(農民)

 

寛永(かんえい)14年10月25日(1637年12月11日)有馬村のキリシタンが中心になり一揆勢が代官所の強訴(ごうそ)に赴き代官、林兵左衛門(はやしへいざえもん)を殺害。ここに島原の乱が勃発します。

 

一揆は島原半島の雲仙地溝帯の南目(みなんめ)と呼ばれる地域の組織化に成功し、さらに北目(きため)と呼ばれる地域の組織化に取り組みますが北目は千々岩断層(ちぢわだんそう)を天然の要害にして南目に反抗したので、南目は北目の組織化を断念しました。

 

ただし、南目のすべての集落が一揆に参加したわけでもなく、北目から参加した農民もいます。島原藩は直ちに討伐軍を出し深江村で一揆軍と激突しますが、兵の疲労を考慮して島原城に戻ります。

 

一揆軍の勢いは盛んで、島原城に籠城した松倉藩の兵士を尻目に城下町を焼き払い、略奪などをして引き上げました。

三国志のモブ 反乱

 

なす術ない松倉藩は一揆に参加しなかった領民に武器を与えて一揆鎮圧を狙いますが、その武器を手にして一揆軍に加わる住民も多く一揆軍の勢力は増していき、島原半島の南西部へと拡大していきました。

 

一部は日見峠(ひみとうげ)を越えて、ポルトガル商館のある長崎に突入しようとする意見もありましたが、討伐軍が迫っている事から断念します。

天草と島原の一揆勢が原城に籠城

仙台城

 

島原に呼応して、数日後に肥後天草でも一揆勢が蜂起、天草四郎を総大将に本渡城(ほんどじょう)などの天草支配の拠点を攻撃し、11月14日に本渡の戦いで富岡城代(とみおかじょうだい)三宅重利(みやけしげとし)を討ち取りました。

 

ちなみに、この三宅重利、明智光秀の重臣、明智秀満の子でキリシタンでしたが、その頃までには棄教し今は寺沢家に仕えて、ここで討ち死にしたのです。

 

明智左馬之助(明智秀満)

 

勢いづいた一揆軍は、唐津藩兵が守る富岡城を総攻撃、北の丸を陥落させ、落城寸前まで追い詰めますが、本丸の防御が固く落城は不可能でした。やがて、幕府の命令を受けた九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った天草の一揆軍は、背後を撃たれる不利を考えて撤退。有明海を渡り、島原半島に移動し、島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城、原城址に籠城します。

兵糧を運ぶ兵士

 

ここで、島原と天草の一揆勢が合流、その総数は37000名に膨れ上がりました。一揆勢は大急ぎで原城址を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬や食糧を運び込んで討伐軍の攻撃に備えます。しかし、どこからも援軍の来るアテがない籠城戦であり、この段階で一揆勢は追い込まれていたとも言えました。

 

幕府軍相手に奮戦するも兵糧攻めに敗れる

城攻めをするシーン(日本戦国時代)モブ

 

島原の乱を知った幕府は、九州諸大名を率いる上使として板倉重昌(いたくらしげまさ)、副使として石谷貞清(いしがやさだきよ)を派遣しますが、寄せ集めの九州諸大名の討伐軍に対し、一揆軍は決死の覚悟である為に士気が高く何度攻めても敗走するばかりでした。

 

事態を重く見た幕府は、2人目の討伐上使として老中松平信綱(ろうじゅうまつだいらのぶつな)、副将格に戸田氏鉄(とだうじかね)を派遣する事を決定しました。しかし、松平信綱に手柄を奪われる事を恐れた板倉重昌は、寛永15年1月1日(1638年2月14日)信綱到着前に乱を平定しようと再度総攻撃を行います。

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

ところが、それは策も何もないただの突撃であり、連携不足もあり4000名の損害を出した上に板倉も鉄砲の直撃を受けて戦死しました。板倉戦死の報告を受けた幕府は、増援として水野勝成と小笠原忠真に出陣を命じます。

 

さらに、新たに到着した松平信綱率いる九州大名の援軍が到着すると幕府討伐軍は12万人に膨れ上がります。

戦う忍者

 

知恵伊豆と呼ばれた信綱は、原城に忍者を潜り込ませて、兵糧の状況を見て、これが残り少ないと見ると力攻めを避けて、兵糧攻めに転じます。結局2カ月余りの兵糧攻めの後、1638年の4月7日に幕府軍の総攻撃があり、兵糧が尽きた一揆軍は支える事が出来ずに城は落城。天草四郎は殺害され、反乱に参加した領民は、そのことごとくが殺害されるという過酷な処置が取られました。

 

実物の天草四郎はどんな姿?

神秘的な佇まいとカリスマ性を帯びた天草四郎

 

天草四郎は時代劇などのイメージでは、前髪を残して髷を結った美少年で、西洋のマントを羽織り、ビラビラした襞襟をつけて、首からは十字架を下げているというイメージです。これは事実ではなく、明治時代以後に、天正遣欧使節団の4人の少年の衣装や使節団を率いた支倉常長(はせくらつねなが)の服装を参考にして想像で造られたものでした。

 

では、実際の天草四郎は、どんな姿をしていたのでしょうか?

 

たまたま天草一揆に巻き込まれた久留米城下の洗町から来た商人の与四右衛門(よしえもん)が、一揆勢3500人が富岡城代の三宅重利を討ち取る合戦を見ており、そこで、天草四郎の姿を見たとして、幕府側に次のように証言を残しています。

 

キリシタン軍は14日、本渡へ陸と海から攻め寄せる。天草四郎は船で本渡町茂木根(ほんどまちもぎね)に上陸し馬に乗る。その時の出で立ちは、

「白い絹の着物を着て、袴を穿いて、頭には(からむし)を三つ組にしてあて、緒をつけのど下にてとめ、額には小さな十字架を立てていた。手には御幣(ごへい)を持って、一揆軍を指揮していた」

 

このように与四右衛門(よしえもん)が見た天草四郎は、白い絹の着物に袴、額には小さな十字架を立てているものの、頭には巫女(みこ)のように苧を三つ組にして乗せて紐で結び、手には神主のように御幣を持つなど、なんというか巫女と神主と武士の装束の中間みたいな感じに見えます。正直言って、カッコイイとは言えないいで立ちです。

 

これがリアルと言われても、多分、映画やドラマの天草四郎は、マントに襞襟にロザリオを下げた美少年の姿で、これからしばらくは出てくるかも知れませんね。

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

驚くべき事に幕府軍は、総大将、天草四郎の顔形さえよく知らず、年の頃、16歳、17歳の少年の首が幾つも届けられても判別出来ず、人質にしていた四郎の母が、肥後細川藩士、陣佐左衛門(じんのすけざえもん)が持ってきた少年の首を見て泣き崩れた事から、その首を四郎と断定したそうです。

 

もし、四郎が実質的な指導者なら、幕府ももう少し正体把握に努めそうですから、本当に象徴でしかなく、実際の作戦指揮は大人に任せていたのかも知れません。でも、逃げたのではなく討ち取られたのですから、一揆軍の兵士としてキリスト教の信仰に殉じた事に変わりはないですね。

 

参考:Wikipedia

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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