皆さんは渡邊大門著、清須会議をもう購入されたでしょうか?
Kawausoは以前に書評を書いたのですが、従来の清須会議の流れに一石を投じるものとして大変面白く読めました。前回は書評でしたが、今回は渡邊大門説をベースに清須会議の全貌を書いてみます。
この記事の目次
清須会議以前の情勢
本能寺の変が織田家に深刻な打撃を与えた理由は、大殿であった織田信長だけではなく、現当主である織田信忠までが討たれた事です。これは織田家が頭脳を失った事を意味し、然るべき当主を立てないと織田家滅亡の危険さえありました。
本能寺の変時に、織田家において宿老格だったのは、
①柴田勝家、②羽柴秀吉、③丹羽長秀、④池田恒興、そして秀吉と共に光秀を討伐した信長の3男⑤織田信孝、さらに信長の次男、⑥織田信雄でした。
本来であれば、関東を任されていた滝川一益も宿老でしたが関東の領地を北条氏に奪われて伊勢に逃亡、清須会議には間に合いませんでいた。
その為、実質的に織田家の後継者を決められる権限を持つのは、上記の6名でしたが、特に毛利輝元と和睦して備中から戻り、山崎の合戦で明智光秀を瞬殺した羽柴秀吉が大きな発言権を持ったのは自然のなりゆきでした。
逆に柴田勝家は、上杉攻めの最中で京都に戻る事が出来ず、山崎の合戦後に帰還して面目を失し、丹羽長秀、池田恒興、織田信孝は単独で光秀に立ち向かえず、羽柴秀吉の助勢を得て、やっと仇討ちが出来たという程度であり秀吉に頭が上らない状態です。
清須会議で決められたのは三法師の後見人
天正10年6月27日頃に行われた清須会議の本当の目的は織田信忠の後継者争いではなく家督を継ぐ事が決定した、織田信忠の嫡男、三法師の後見人を誰にするかでした。
あるいは、川角太閤記等では、柴田勝家が織田信孝の烏帽子親である事などから、勝家より信孝を後継者にという意見も出たかも知れませんが、信忠に子供がいないならまだしも、三法師という嫡男がいる事実は重いと秀吉が正論を述べると、丹羽長秀が賛同し、勝家は強く反論もせずに引っ込んでいます。
そもそも勝家も自身の主張が無理筋だと知っていたからこそ、反論しないで引っ込んだのでしょう。
ここから見ても、織田家の後継者として三法師を担ぐというのは諸将の合意事項であり、ドラマや映画でありがちな、幼い三法師を秀吉が手懐けて、上座に就くというような奇策は実際には必要ない事と考えられます。清須会議で話し合われたのは、あくまで三法師の後見人を誰にするかであり、信忠の後継者を決める事ではなかったのです。
後見人が争ったので堀秀政を後見人とする
幼い三法師に織田家の家督を継がせ、その後見人として明智光秀を討った功績がある織田信孝が選任されました。しかし、信孝と信雄はまもなく、与えられた尾張と美濃の境界線をどこにするかでもめ事を起こします。尾張を領有し境川における国切りを主張する信雄と、美濃を領有し長良川を境界とする大河切りを主張する信孝は、互いに一歩も主張を譲りませんでした。
このような状態では、とても天下の大事に対応できないので、宿老は話し合い、三法師の後見人だった織田信孝に後見人を下りてもらい、第三者である堀秀政を三法師の守役にし、以後、宿老が共同で三法師を守り立てる事にし後見人は置かない事に決定します。
信孝・信雄の争いで信長の葬儀が出せない
信孝、信雄の対立は思わぬ問題を起こしました。信長の葬儀の時期が迫っていたにもかかわらず、信孝、信雄からも宿老からも葬儀の話が出てこないのです。信長の供養は、信長の死から49日にあたる同年7月20日に、焼け跡の本能寺で細川藤孝が小屋を設けて追善の連歌百韻を開催したのを最初です。
次に、9月11日には勝家の妻になっていたお市と信長の乳母が百日忌を済ませ、翌、9月12日には信長の4男で秀吉の養子の羽柴秀勝が大徳寺で百日忌をそれぞれ行っていました。百日忌は、それぞれ信長の身内が行っているのが特徴です。
しかし、御覧のように百日忌に信長に最も近しい信孝、信雄の参列はありませんでした。
秀吉は、両名に書簡を送り信長の葬儀を執り行いたいので、参列して欲しいと申し出ていますが、信孝も信雄も互いに顔もみたくないのか書簡を黙殺しました。
秀吉は、このままでは織田家が天下の面目を失うとして1人で踏ん張り、喪主として信長の4男で秀吉の養子に入った羽柴秀勝、池田輝政、丹羽長秀の名代が3名に、細川藤孝が参列して葬儀を執り行います。
しかし、険悪な空気を察知し、宿老である滝川一益、丹羽長秀、柴田勝家、信孝の名代、池田恒興も葬儀参加を見送りました。本来ならば葬儀を執り行わねばならない、信孝、信雄が不仲から参列を見送り、宿老たちもトラブルを恐れ葬儀に参加しない等、宿老会議は脆弱な面を見せています。
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