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この記事の目次
戦国時代の武士に大人気のシャボン
さて、時代は少し下り戦国末期に入ると、日本では舶来品であるシャボンが大人気になったという記録があります。なんでもイギリス東インド会社の貿易船隊の司令官が本国に書き送った「日本で売れる需要商品ならびに、その適用価格」の中でスパニッシュ・ソープを挙げている程でした。
この時代、シャボン高価でしたから贈答用として喜ばれ、博多の豪商が伏見地震のお見舞いとして石田三成にシャボン2個を贈り、律儀な三成はそれにお礼状を書いていて、そこに漢字4文字で志也保牟(しやぼむ)と書いてあるとか・・・
また、三成にとっては怨敵のイイイイエエエエヤアアスウウウーー!!こと徳川家康もシャボンに着目していました。家康は高価なシャボンを惜しげもなく戦場に送り、将兵にシャボンで体を洗浄するように勧めています。
徳川家康の遺品目録に、十壷のシャボンが記録されている点から見てシャボンの高価さが分かりますが、それを惜しげもなく将兵に使わせたのですから家康は天下を取るだけの事はありますね。
尋常ではないキレイ好きの織田信長
戦国の風雲児織田信長も非常なキレイ好きだった事が知られています。カトリックの宣教師の記録によれば、織田信長の屋敷を訪れた時、新しい靴でなければ入れず、部屋を通る際には、後ろから箒を持った人がルンバのように掃きながらついてきたとか、信長が一室にあった果物の皮を掃かなかった娘を怒って殺した等とスゴイ事が書かれています。
また、ある時信長は、不意に小姓を呼び寄せてから、もうよい下がれと3回繰り返した事がありました。2人目までの小姓は下がれと言われて何もせずに下がりましたが、3人目の小姓は下がりながら部屋に落ちていた落ち葉に目を留め拾っていきました。
すると信長はニッコリ笑い、「そうだ!全てに気を配る心掛けが肝心なのだ」と小姓を褒めたとか、、ここには前回の記事で書いた、武士は全てに神経を張り巡らせているという考えと共通する点があります。
葉隠の武士の身だしなみ
また肥前佐賀藩士、山本常朝が著わした「葉隠」には武士の身だしなみについて以下のような事が書かれています。
①五、六十年前までの武士は、毎朝行水して身体を清め、髪を整え、髪には香の匂いをつけ手足の爪を切って軽石で軽くこすり、こがね草で美しく磨き、少しも怠ることなく身なりを整えた。
②もちろん、武具の類にいたっては、少しも錆をつけず埃も払って磨き立てておいたものである。
②の武具の手入れについては、最初の六波羅殿御家訓にも
錆びた刀を腰に差してはならない。主君や親が召し出したときに、錆び刀を抜いて参上すれば、見下げたヤツだと思われるだろう。そもそも、武士というものは、大刀や刀を錆びつかせてはいけない。
このように書いていて、山本常朝に共通する部分を感じさせます。また、山本常朝が佐賀藩の武士だとしても、この風潮が佐賀藩でだけ行われていた事だとはとても考えられず、武士の清潔好きは全国的なものだと言えるのではないでしょうか?
どうして日本人は清潔好きなのか?
ここで武士から目を転じて、どうして日本人が清潔好きなのかを考えてみます。民俗学者の新谷尚紀氏によると、日本人の清潔好きには、梅雨と水稲が大きく関係しているそうです。
つまり、日本は梅雨でジメジメしてカビや病原菌が発生しやすい環境なので、カビが生えないようにせっせと拭き掃除をしたり、手を洗う習慣が産まれました。
また、水稲を育てるには、常にきれいな水が田圃に入るように手入れをしないとならず、用水路のゴミを取り除いたり害虫駆除や畔の草取りのように田圃の周辺をキレイにしないといけません。この梅雨と水稲の2つが日本人の清潔好きな国民性に影響を与え、もちろん日本人である武士もその影響を受けたのです。
日本史ライターkawausoの独り言
以上の調査結果から、武士の清潔好きは明治時代以後の創作ではないという事が言えます。鎌倉時代の武士には清潔好きの片鱗が見え、戦国時代になると、シャボンのような衛生用品に気を配る武士が出てきている事が分かります。
そして、その基礎には梅雨という気候条件と水稲栽培から、ゴミを取り去り、カビが生えないように住居を磨くという伝統的な日本人の清潔好きな性質が大きく影響していると考えられるのです。
参考文献:六波羅殿御家訓 葉隠、花王ヘルスケアナビ「からだキレイ史」、キリシタン時代驚きの国ニッポン
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