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古代から天然の良港だった清水港
清水みーなとのーめいぶーつは~お茶の香りと男だーてー!
このように、旅姿三人男で歌われた清水港ですが、その歴史は古く7世紀の後半、斉明天皇の時に、百済援助の為に清水港周辺で軍船が建造され、万余の兵が大陸に渡った記録があります。
清水港が古代から利用されていた理由は、駿河湾奥の有度山から沿岸流によって削りとられた砂が運ばれ堆積した三保の砂嘴が二重、三重に取り囲んで入り江を形成しているからです。
こうして形成された折戸湾は入り江に守られて風の影響を受けず停泊している船が大風で船同士衝突して、沈没するような事態から免れてました。
この特性から、清水港は平安時代には悪天候の時の避難場所として使われ、戦国時代には今川水軍の根拠地になり、それを今川義元死後、武田信玄が奪って武田水軍の本拠地とし、さらに武田が滅んだあとには、徳川家康の戦略拠点になりました。
袋城を築いたのは武田信玄で、武田滅亡後に廃城になっていたのを秀吉が目をつけ、長束正家と数千の軍勢を置いてロジスティックの拠点として利用したのです。
ダメ押しの大土木工事
豊臣軍の圧倒的なロジスティックの最後のダメ押しは石垣山城です。秀吉は、小田原城の西3キロにある笠懸山の山頂に石垣山城を建設。これは石垣や櫓を備えた本格的な近世城郭で関東で最初に造られた総石垣の城とされています。
しかし、なにより圧巻なのは、秀吉はこの石垣山城を80日という突貫工事で、3万から4万人という兵士を動員して建築したという事実でしょう。小田原城では、自分達の城よりも高い位置に出来た石垣山城を見て、度肝を抜かれ意気消沈したそうですが、無理もありません。
20万人で遠征してくるだけでも大変なのに、80日で総石垣の城を築いてしまう秀吉の財力に後北条氏は、もう、何をやっても無駄だと恐れ入ったのではないかと想像します。やることなすこと、なにもかも巨大で壮麗で異例づくめ、新次元の天下人の出現に後北条氏5代、100年の栄華も膝を屈するよりなかったのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
規模はもちろん違いますが、ロジスティックを重視する秀吉の戦い方は、アメリカの戦い方に似ている気がします。物量でガンガン押し、相手が抵抗するのは無駄だと諦めてしまうような極めて大味で圧倒的な戦い方。
日本人好みの窮乏に耐えて勝つや、少数で多勢を討つみたいな一発逆転要素はありませんが、実際、こんなのでこられたら、降参する以外にありませんね。
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