小田原征伐時の豊臣軍のロジスティックが凄すぎる!

2020年9月10日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

戦国時代の大合戦の一つ、小田原征伐(おだわらせいばつ)、豊臣秀吉が大軍で小田原城を包囲し3カ月で合戦が終わったので、楽勝と思われがちですが、実際にはそうでもありませんでした。

 

秀吉は天下統一の総仕上げとして、20万もの大軍を集めましたが、動員された大名は日本全国から、手弁当で集まるのであり、小田原に向かうだけでも大変な費用が掛かりました。

 

しかも到着したら終わりではなく、そこから城を包囲しないといけないわけで、諸大名は兵糧や弾薬や薬、馬の飼料はどうすればいいか大いに困惑しました。それを解決したのが豊臣軍の圧倒的な兵站能力、ロジスティックだったのです。

 

戦国オールスターを実現させた秀吉のアイデア

中国大返し ver1(豊臣秀吉)

 

豊臣秀吉が動員をかけた戦国大名は東北、関東、東海、近畿、四国、九州までの50名以上のオールスターであり、毛利水軍まで含めると20万を超える大軍でした。これは日本史上空前絶後の規模と言ってよく、日本が再び20万を超える遠征軍を出すのは、300年後、1894年の日清戦争まで待たねばなりません。

 

軍議(日本史)モブb

 

しかし、数はよいとしても問題は、20万人の兵力をどうやって食べさせていくかです。戦国時代の合戦では、食糧は自分で用意するのが基本で、埋め合わせは恩賞でしていたのですが、関東近辺の大名なら兎も角、九州や東北の大名では、一体、どれだけの兵糧を持って行けば、小田原城が落ちるまで持つのか見当もつきませんでした。そこで秀吉は、戦国の常識を覆す画期的なアイデアを出してきます。

 

人たらしの豊臣秀吉からのオファーを拒否する佐久間盛政

 

諸大名はそれぞれ、小田原まで到着できるだけの兵糧を持ってこれば宜しい、そこから先は豊臣で責任をもって兵糧を確保する。これにより、全国の大名は小田原に到達するまでの兵糧を持参すればよくなり、小田原攻めが実現するのです。

 

 ロジスティックのポイント清水港と袋城

鉄甲船

 

兵士は胃袋で歩くとは、ナポレオン・ボナパルトの格言ですが、合戦がない限り兵士とは博打(ばくち)を打つか、寝ているか、酒を飲んでいるか、飯を食っているかでした。そして、小田原に集結する軍勢20万人が消費する食糧はすさまじく、1日で米187.2tが消えてしまうのです。

 

宋銭 お金と紙幣

 

この莫大な食糧をまかなう為、秀吉は、部下の長束正家(なつかまさいえ)に命じて、20万石という米を徴発させ、黄金1万両を参じて輸送用の馬1万頭を揃え、毛利輝元に命じて千隻の船を使い、駿河国清水港(するがのくにしみずみなと)に20万石もの兵糧を陸揚げ、さらに長束正家とスタッフが、これを袋城(ふくろじょう)という城址(しろあと)に運び込んで管理しました。

 

長束正家が、袋城にロジスティックの拠点を置いた事により、従軍大名は兵糧が不足すると袋城まで来て、市で兵糧と軍需物資を調達する事が可能になりました。

 

はじめての戦国時代

 

袋城に市を立てて兵糧を運用する

にぎわう市(楽市・楽座)

 

正家は、袋城に市を立てるだけではなく、全国から大商人を呼び寄せ、兵士が必要とする物資と米を売買して交換し、20万人が必要とする軍需物資を賄いました。なにしろ20万人の兵の兵糧米消費だけで1日187.2トンです。現在の米の1キロを500円と換算しても9375万円、ざっと1日で1億円が動く事になります。

 

もちろん兵士は米だけを食べるわけではないので、塩や味噌、酒、草鞋(わらじ)や笠(かさ)、筵(むしろ)のような日常品や、タバコのような嗜好品まで付随してよく売れたでしょう。そもそも当時の関東に人口20万都市はありませんから、袋城の巨大な市は周辺の商人に一大ビジネスチャンスを運んできた事になります。

 

九州平定でノウハウを積んだ豊臣氏

金の亡者の豊臣秀吉

 

実は、九州平定の頃にも、秀吉は、小西隆佐(こにしりゅうさ)など4人の奉行に30万人分の兵糧、馬2万匹分の飼料を1年分調達することを命じています。しかし、九州平定は小田原攻めの3倍、9カ月程かかり戦費捻出に苦しんだ羽柴秀長(はしばひでなが)は、兵糧米を高値で味方大名に売りつけようとし、秀吉に止められたというような逸話があります。

 

この時も、長束正家は兵糧奉行として、やはり兵站に携わっていました。兵糧をただ保持するのではなく、運用して利益をあげるという発想は、もしかして銭ゲバな羽柴秀長から学んだのかも知れません。

 

非常に極悪な表情をしている豊臣秀吉

 

また、大名が兵糧を買う金がない時は、豊臣家は資金を貸し付け掛けで売りました。こうしておけば大名の弱みを握る事ができ後々利用できるからです。なんにしても、長束正家と清水港と袋城なしに秀吉の小田原征伐は不可能でした。

古代から天然の良港だった清水港

遣唐船(奈良時代)

 

清水みーなとのーめいぶーつは~お茶の香りと男だーてー!

 

このように、旅姿三人男で歌われた清水港ですが、その歴史は古く7世紀の後半、斉明天皇(さいめいてんのう)の時に、百済(くだら)援助の為に清水港周辺で軍船が建造され、万余の兵が大陸に渡った記録があります。

 

清水港が古代から利用されていた理由は、駿河湾奥の有度山(うどやま)から沿岸流によって削りとられた砂が運ばれ堆積した三保の砂嘴(さし)が二重、三重に取り囲んで入り江を形成しているからです。

 

悪い顔をしている今川義元

 

こうして形成された折戸湾は入り江に守られて風の影響を受けず停泊している船が大風で船同士衝突して、沈没するような事態から免れてました。

 

この特性から、清水港は平安時代には悪天候の時の避難場所として使われ、戦国時代には今川水軍の根拠地になり、それを今川義元(いまがわよしもと)死後、武田信玄(たけだしんげん)が奪って武田水軍の本拠地とし、さらに武田が滅んだあとには、徳川家康の戦略拠点になりました。

 

真田丸 武田信玄

 

袋城を築いたのは武田信玄で、武田滅亡後に廃城になっていたのを秀吉が目をつけ、長束正家と数千の軍勢を置いてロジスティックの拠点として利用したのです。

 

ダメ押しの大土木工事

名古屋城

 

豊臣軍の圧倒的なロジスティックの最後のダメ押しは石垣山城(いしがきやまじょう)です。秀吉は、小田原城の西3キロにある笠懸山(かさかけやま)の山頂に石垣山城を建設。これは石垣や櫓(やぐら)を備えた本格的な近世城郭(きんせいじょうかく)で関東で最初に造られた総石垣の城とされています。

 

しかし、なにより圧巻なのは、秀吉はこの石垣山城を80日という突貫工事で、3万から4万人という兵士を動員して建築したという事実でしょう。小田原城では、自分達の城よりも高い位置に出来た石垣山城を見て、度肝を抜かれ意気消沈したそうですが、無理もありません。

 

20万人で遠征してくるだけでも大変なのに、80日で総石垣の城を築いてしまう秀吉の財力に後北条氏は、もう、何をやっても無駄だと恐れ入ったのではないかと想像します。やることなすこと、なにもかも巨大で壮麗で異例づくめ、新次元の天下人の出現に後北条氏5代、100年の栄華も膝を屈するよりなかったのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

規模はもちろん違いますが、ロジスティックを重視する秀吉の戦い方は、アメリカの戦い方に似ている気がします。物量でガンガン押し、相手が抵抗するのは無駄だと諦めてしまうような極めて大味で圧倒的な戦い方。

 

日本人好みの窮乏(きゅうぼう)に耐えて勝つや、少数で多勢を討つみたいな一発逆転要素はありませんが、実際、こんなのでこられたら、降参する以外にありませんね。

 

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織田信長スペシャル

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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