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味方多く、敵は少なく
そんな風に上司、部下に可愛がられ、慕われていた張遼。だけどそんな張遼でも上手くいかなかった相手というものもあります。それが李典、楽進。しかし合肥の戦いでは私情を含めず国事に当たり、見事防衛を成功させました。
張遼はプライベートでは仲が悪くても、それで相手を貶めたりするような性格ではなく、あくまで国のために働きました。こうした張遼の性格を「清廉」と呼んだのでしょう。
あり難きもの
当時、三国の時代には数多くの名将、猛将がいました。武勇の優れる、知略に優れる、それは人それぞれの長所であり簡単には比べられません。しかし張遼の凄さはそれだけではなく、その人格面にもありました。
何度も主を代えた、敗軍の降った武将、主君に気に入られる……下手をすれば哀れな最期を迎える人物も少なくない中で、魏の武将として働き続けたその姿。他者を貶めず、自らを省みて、悪い点があれば相手が誰であれ謝罪する……その性格あってこそ、張遼は張遼であれたのだと思います。中々できることではないですよね。
退場に華を添えて
さて、そんな張遼ですが、最期は病死でした。皇帝・曹丕はその死に涙したと言います。しかし三国志演義では張遼は矢傷が悪化して亡くなったとされています。三国志演義では死因が違うことは良くあることですが、張遼の場合はちょっと印象に残る最期になっているのが特徴。
なぜならこの矢傷、呉の丁奉が放った矢から曹丕を庇っての名誉の負傷なのです。ただ病死ではなく、戦死でもなく、名誉の負傷……そう考えると三国志演義著者もかなりの張遼ファンかな?と思ってしまいますね。
三国志ライター センのひとりごと
今回は張遼の武勇だけでなく、その内面をご紹介させて頂きました。振り返ればこれほどできた人物であれば、慕われ、愛され、出世して当然とも言えるでしょう。その姿勢は現代でも通じる、清廉潔白であり、謙虚な人柄、そしてそれに内包された優秀さ……だからこそ張遼は数多くの三国志ファンから愛されている、そう、時代を越えて慕われている武人だと思うのでした。
参考文献:魏書張遼伝 胡質伝
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