合肥の戦いでその三国無双さを見せつけたことで有名な張遼。魏の武将でありながら三国志演義でも扱いが悪いということはなく、尋常じゃない武勇がやや控えめ(当社比)されているだけとかなり好待遇で迎えられています。
そんな張遼の凄さは武勇だけではなかった?
今回は張遼に学ぶべきその姿勢を語っていきたいと思います。
この記事の目次
張遼には裏切り者のイメージ、ありません
さて張遼は丁原、華雄、董卓、呂布、そして曹操と数多く人物に仕えました。
並べてみると分かりますが、大体後ろの人物に前の人物が滅ぼされていますね。
そう、言い方は悪いですが、張遼はそれまで仕えていた主を滅ぼした主に改めて仕える人生を送ったのです。しかしそんな張遼、裏切り者だとか、主をほいほい代えるだとか、そんな悪いイメージを抱いている人は殆どいないでしょう。
それはどうしてか?
これには張遼が「清廉」な人であったという話、それを裏付ける逸話が残されているからだと思います。
知略も巡らし、心を打つ張遼
それは曹操が袁紹を打ち破った頃のこと。張遼は反乱を起こした昌キという人物を夏侯淵と共に包囲していました。
この昌キは元々呂布の配下で、一時は曹操に従ったものの、今回も含めて何度も反乱を起こす困ったちゃんな人です。
この際に昌キは中々鎮圧できませんでしたが、その心を良く推察した張遼は夏侯淵に伺いを立て、同意を得てから説得に当たって降伏させました。武勇一辺倒ではない張遼の凄さですが、これで話は終わりではありません。
自らを省みる張遼
後に張遼は単身で昌キの家族に挨拶しにいきましたが、これらの一件は曹操の耳に入り、大将がそういうことをするな!と叱責を受けています。
しかし張遼はこの叱責を受けてすぐに謝罪、筆者なんかは上手くいったんだからいいじゃない……なんて思ってしまいますが、張遼は己を省みて反省しているのですね。また張遼は部下と仲違いしたことがありましたが、これを諫められると素直に部下に謝罪したそうです。そう、この自らを省みて、頭を下げることができる謙虚さ、これが張遼の凄さ、そして強さだと思います。
主君にとても気に入られていた張遼
そんな張遼は主君、曹操、曹丕親子両名にとても気に入られていました。曹操は元々かつての敵であっても良く親しむ人物であるのですが、張遼は同じ車に同乗させるほど良く親しんでいたそうです。
また曹丕からは自分が食べる(皇帝の食事!)を給わせたり、病気にかかった際には張遼の元へ自分の専属医を派遣したりと大切にされていました。
また前述したように自分が悪ければ部下にも謝罪できる漢、張遼は上司だけでなく部下にも慕われ、良く言うことを聞き、病の際には見舞いに訪れた人々で道があふれかえっていたほどだったとか。
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