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どうして差が生まれた?
ではどうしてここまで差が生まれたのでしょうか。その理由の一つに、蜀という土地があると思います。
人が住むにはまず家が必要で、住む場所が必要です。そしてそれを養うだけの食料生産が必要になります。
つまり土地がいる……そして蜀の土地、地図で見ると山間部だらけで、人が住み、養えるだけの土地は少なかったのではないかと思います。また交通の便も不便でしょうから、そういった面も含めて人口の差が生まれたのではないかと推測できます。
大きな敗北
もう一つ、筆者はこちらも大きな理由ではないかと思っているのですが、蜀の夷陵の戦いです。
この蜀の敗北について、どれだけの被害か分かるのは呉の記録でしかないのですが、数万の被害が蜀に出たとあります。人口の全てが軍人ではありません、それを管理する人たち、支える人たちがいます。
その軍人たちが一挙に失われ、その補充をしなければならない、育成にも時間と費用が掛かる……これらを考えるとこれは人だけでなく、大きな国力の減退を招いていると言っても良いでしょう。
均衡はどこまで取れていたか?
では、魏、呉、蜀。この三国の均衡はどこまで取れていたのでしょうか。筆者の考えで言えば、6、3、1くらいのパワーバランスの印象です。そしてこのパワーバランス、赤壁の戦いの時点ですでに出来上がっていたと思います。
それは曹操が、赤壁の戦いでの敗北を喫してからも復帰できたからです。復帰するには人材が、戦力が、国力がどれほど残っているかが重要です。大きな敗北を喫してなお、立ち上がれるだけの力があるかどうか、その時点でパワーバランスは既に決していたのではないかと思います。
だからこそ曹操は武人であり、政治家でもあるなあと感服せずにはいられないのですよね。
三国志ライター センのひとりごと
今回は改めて三国の国力差を前にして、やはり魏、そして曹操の凄さを再確認しました。劉備も何度も立ち上がってきた印象がありますが、曹操もまた何度も困難から立ち上がってきた、そしておそらく孫権もでしょう。
しかし立ち上がるには力が必要です。そしてその力とは個人ではなく、既に国の力でもあるのだと、三国志は教えてくれる存在だと思いましたね。
参考文献:呉書呉主伝 陸遜伝
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