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この記事の目次
悲劇!いつのまにか守護でなくなった武田元明
さて、一乗谷に軟禁され傀儡扱いの武田元明に話を移します。金ヶ崎の戦いの時、若狭国衆の越前朝倉氏への反感を利用して、若狭を落とした信長ですが、暫定的に丹羽長秀を若狭半国守護に任じています。
これをカウントに入れると、織田家で一番最初に国持ち大名になったのは丹羽長秀という事になります。若狭半国に留めているという事は、信長は残りの半分は武田元明の所領と認めていたようですが、武田元明は一乗谷から出る事なくそのままでした。
この消極的な態度がどうやら信長の勘気に触れたようです。
(若狭はてめえの国だろうが!どうしていつまでも朝倉の庇護を受けたままで、我等に敵対しておる!なめとんのか!あぁん?)てな事でしょう、多分
天正元年(1573年)8月に朝倉氏が滅亡すると、武田元明は粟屋勝久に救われますが、その頃には若狭一国は丹羽長秀に与えられ、元の若狭衆、逸見昌経、内藤越前守、香川右衛門大夫、熊谷直澄、山県下野守、白井光胤、粟屋勝久、松宮玄蕃、寺井源左衛門、武藤友益は、長秀の与力になっていました。
知らない間に、武田元明は若狭守護の地位を失っていたのでした。
失意の元明は元は自分の居城だった、長秀がいる後瀬山城を避け、同じ遠敷郡小浜にある若狭神宮寺桜本坊に入り、一乗谷合戦の一番槍だった粟屋勝久と共に何度も赦免を求めますが、信長は無視し続けました。可哀想ですけど、自分の領地が掛かっている戦いの最中に、ずっと敵方の館にいたんですから、ま、仕方ないっちゃあ仕方ないですよね?
本能寺の変にラストチャンスを賭けるも空しく滅亡
しかし、天正9年(1581年)大飯郡高浜城8000石の領主である逸見昌経が死去すると、信長はこれを後継ぎなしとして所領を没収。その一部、佐分利の石山城3000石を元明に与え、元明は若狭衆の1人として長秀の与力になります。
でも、元は若狭守護だったわけですから若い元明に無念は募ります。そんな時、元明に天のチャンスが飛び込んできました。天正10年、6月2日、京都本能寺で織田信長が明智光秀に討たれ、天下はガラガラポンになったのです。
「チャンス!今こそ、わしが若狭守護に戻れる好機じゃ!」
武田元明は、信長を討った明智光秀に味方し、若狭衆の武藤友益と共に近江佐和山城に恨み重なる丹羽長秀を攻めて城を陥落させます。ところが、明智光秀が毛利輝元と和睦して急遽戻った羽柴秀吉と戦い、山崎の戦いで敗走すると、武田元明の命運も尽きました。
武田元明は、羽柴秀吉に恭順の意を示しますが、長秀のいる近江海津に招かれ海津の宝幢院で謀殺されました。または自害したとも伝わります。享年は21あるいは23、または31歳。
戦国時代ライターkawausoの独り言
元明には、永禄5年(1562年)誕生説と天文21年(1552年)誕生説があるそうです。もし、永禄5年なら金ヶ崎の戦いの時には、僅か8歳で朝倉氏が滅亡した時でも11歳にしかなっていません。
これで戦意がないとして若狭守護の地位を取り上げられたとしたら、流石に可哀想です。
しかし、天文11年なら金ヶ崎の戦いの時点で18歳、朝倉氏滅亡時には21歳ですから、さすがに傍観してました!は通らない年齢だと言えそうです。本当はどっちだったんでしょうかね?
参考:Wikipedia
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