曹操の子供の頃のあだなは、嘘つき小僧だった。
それから、遥か後年、西暦209年、曹操は自分の半生を振り返り天下に布告を出しているが、やはり所々にウソを混ぜる癖は抜けなかったらしい。
以下は魏武故事における曹操の言葉
(中略)ところが董卓の難に遭遇したので、正義の兵を起こしたのである。
当時は、多数兵力を集める程能力があると思われていた。
しかし(自分)は常に兵を少なく抑え多くしたいとは思わなかった。
理由は兵数が多くなると、自然に兵が自分は強いと錯覚して無暗に好戦的になり、
強敵と当たった時に、禍になると思ったからだ。
それゆえ汴水(べんすい)の戦いでは数千の兵であり、
後に帰郷して揚州で兵を集めた時もまだ3千に過ぎなかった。
これはウソで、曹操は無名故に兵が集まらず、揚州で夏侯惇と募兵して
刺史陳温、丹楊太守周昕(しゅうきん)が兵四千余人を集めて曹操に与えても途中で叛かれ、
4000人から500人しか残らなかったと魏略にはある。
曹操は兵を少なく抑えたのではなく、少数しか集まらないので、そういう戦い方をするしかなかったんだろう。
それを兵が多いと無暗に好戦的になり危ないからと、もっともらしい理由をつけて誤魔化す
こういうところにサラッとウソを混ぜてくるから、曹操は嘘つき小僧なのである。