ベンジャミン・フランクリンと言えば、アメリカの科学者であり実業家であり、アメリカ独立運動の指導者の1人として、建国の父達と讃えられる偉人です。彼は、ボストンの貧しい職人の子として出発し、苦学して印刷業を起こして成功した立志伝中の人物であり「時はカネなり」という名言でも知られます。
しかし、そんな偉人ベンジャミンには裏の顔がありました。彼は出版のノウハウを駆使し、悪質な手口でライバルを潰したペテン師だったのです。
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ボストンに生まれ印刷業に従事する
ベンジャミン・フランクリンは、西暦1706年に1月6日に、ジョサイア・フランクリンの15人目の子供として、ボストンのミルク・ストリートで誕生しました。1716年には、10歳で義務教育を終え、1718年「ニュー・イングランド・クーラント」紙を印刷出版していた兄ジェームズの徒弟となります。
当時、アメリカで興隆しつつあった印刷出版事業とベンジャミンの出会いです。頭のよいベンジャミンはすぐに印刷の仕事を覚え、記者や編集者としても頭角を現していきます。しかし、才能豊かなベンジャミンは、兄とよく衝突したようで、1722年にはニュー・イングランド・クーラントの執筆を止められました。
兄の新聞で未亡人になりすまし結婚の申し込みを受ける
ここでベンジャミンは、意図せずして最初のペテンの才能を発揮します。当時16歳、漲る執筆欲を強引に兄に抑え込まれたベンジャミンは、
「本名で書かなきゃいいんだよなぁ!」と開き直りサイレント・ドゥーグッドという中年の未亡人になりすまし、兄の雑誌ニュー・イングランド・クーラントに投稿を開始します。
ベンジャミンは、他人になりすます天才的な文才があり、兄は弟が未亡人になりすましているとは全く気づかず、14編もの投稿を掲載しました。機知に富み聡明なドゥーグッド夫人に、読者は惹きつけられ結婚の申し込みまで来たそうです。
しかし、いよいよ種切れになったベンジャミンは、ドゥーグッド夫人は自分だと打ち明けます。友人には褒められたものの兄には嫌われました。そして翌年には、ゴタゴタを起こして兄と袂を分かち、1730年には自分の新聞ペンシルヴァニア・ガゼットを創刊します。
貧しいリチャードの暦を発行する
敏腕編集者にして優秀な記者でもあったベンジャミンが興したペンシルヴァニア・ガゼット紙は、すぐに収益を上げていきました。しかし、印刷業で成功するには、新聞だけでは市場が小さく経営の多角化を考えないといけません。そこで、ベンジャミンが目をつけたのが暦を出版する事でした。
当時の暦は現在の新聞に替わる存在で、翌年に役立つ情報を予測し、日の出、日没、潮の干満、簡単な占星術、社説、天気予報、スポーツ、そして、農業に必要な情報が載っていました。
当時、アメリカで一番売れていた暦は、マサチューセッツのナサニエル・エイムズの暦で年間5万部の売上がありました。18世紀のアメリカ人の大半は農夫であり、新聞よりも暦が重要だったのです。
こうして、暦に目を付けたベンジャミンは、「貧しいリチャードの暦」という暦を出版します。どういうわけか、ベンジャミンはここでも匿名で、リチャード・ソーンダースという人物になりすまし、喰うや食わずの無想家が、口うるさい妻にせっつかれ暦を出版したという設定で書かれました。
ライバル、タイタン・リーズの死を予言する
この頃、アメリカの暦業界では、売上を競うライバル同士が「バカ」とか「間抜け」とか、紙面で相手を罵り合うという牧歌的な喧嘩が続いていました。
貧しいリチャードの暦の発行部数を伸ばしたいベンジャミンも、なんとかライバルを蹴落として注目を浴びようと、ある手段を考えます。それは、それまでの口汚い罵り合いが可愛く見えるような奇想天外なものでした。
それは、大御所の暦出版社、タイタン・リーズの死を宣告するものだったのです。ベンジャミンは占星術で、リーズが1733年10月17日の3時29分、太陽と火星が重なり合うまさしくその時に亡くなると、1732年の暦で予言しました。
通常、大御所出版社なら、新手の出版社の挑発には乗らないものです。有名人のTwitterに誹謗中傷をするフォロワーには反論よりブロックみたいなものですね。しかし、タイタン・リーズは生真面目で冗談の通じない人だったようで、ベンジャミンに対し、やってはいけない最悪の対応をしました。
翌年の1734年に出版した暦に、愚か者の「貧しいリチャードの暦」が、私が死ぬ等と言ういまわしい嘘をばら撒いたが、神の恩寵のお陰で私はこうして生きて1734年の日記を書く事が出来ている。このように反論してしまったのです。
SNSで言う所の燃料を投下してしまったリーズにベンジャミンは狂喜乱舞しました。大御所が喧嘩を買った、それだけで十分な話題になり貧しいリチャードの暦は売れるからです。
ところが、ベンジャミンはやはりペテンの名人でした。
大御所が死んだとおちょくり、発行部数が少し伸びた程度では終わらせるつもりはなかったのです・・
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