箱根八里は 馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川
箱根番所に 矢倉沢なけりゃ 連れて逃げましょ お江戸まで
三島照る照る 小田原曇る 間の関所は雨が降る
これは「箱根馬子唄」という民謡です。ちなみに馬子とは、荷物や人を馬で運ぶ職業のことを指します。東海道新幹線はトンネル技術を駆使し、熱海方面から小田原を通って江戸(東京)へと向かいますが、熱海方面から小田原への海岸線は断崖絶壁が続きますので、戦国時代は箱根峠を通るしかなかったようです。
箱根峠を越えるといよいよ関東に入りますが、その入り口にあるのが小田原、そして「小田原城」です。地形図をみると本当によくわかるのですが、実は関東って閉ざされた空間だったんですね。五代にわたって関東を治めた北条氏、そして江戸に幕府を開き関東を拠点とした徳川氏にとって、関東はこもるのには便利な土地だったのかもしれません。そして小田原は、その為にはとても重要な要衝であったわけです。
「小田原城」を楽しんでいただくためには、天守の周りだけではなく、関東地方の特殊性や地形にも目を向けていただきたいと、そんな思いで今回は記事を書かせていただきました。
この記事の目次
何故「小田原城」は難攻不落の城と言われているのか?
豊臣秀吉が天下統一を果たすのに最後に落としたのがこの「小田原城」、そして「北条氏」です。しかし正確に言うと、秀吉は「小田原城」と落としたわけではありません。大群で取り囲み、全国の武士が豊臣秀吉の臣下になったことを知らしめ、時代の移り変わりを北条氏に認識させることで、反攻を諦めさせたに過ぎないのです。実態は「総構え(そうがまえ)」で守られた「小田原城」を攻めあぐねていました。実は豊臣秀吉だけでなく、それ以前にも名だたる武将が攻めてきたわけですが、それを見事にはねのけています。
まずは軍神と称された上杉謙信(うえすぎけんしん)です。
関東周辺の、反北条を掲げる武士を集め、約10万人の大群で攻めてきたとされています。しかし「小田原城」鉄壁の守りに阻まれ、攻めあぐねること一か月。寄せ集め集団だったこともあり、次第に反北条連合軍はバラバラになり、「小田原城」攻略を断念しました。その後上杉謙信は北条氏から養子をもらい受け、同盟関係を強化することになります。しかしこの養子縁組、ゆくゆくは豊臣秀吉の小田原攻めにつながっていきます。これが歴史の面白いところなのですが、この養子に出されたのが、後に上杉景勝と家督を争うこととなる上杉三郎景虎でした。この家督争いの裏には上杉家を乗っ取ろうとした北条氏が深く関わっていましたので、上杉景勝が家督を継ぐことになった上杉家が反北条家になることを決定づけました。
上杉氏の参謀、直江兼続(なおえかねつぐ)と石田三成が親しかったことも、豊臣秀吉の小田原攻めを後押ししたと言われています。
次にやってきたのは「甲斐の虎」武田信玄です。
どうやら上杉謙信が城攻めに失敗したことを知っていたようで、城を攻め落とすのには難しいと判断し、城外におびき出そうとします。城下町に火を放ったりした訳ですが、北条氏は決して城を出ようとはせず、武田信玄は包囲四日目で撤兵を決断します。そしてその後、武田信玄は北条氏と同盟する道を選ぶことになります。
上杉謙信と武田信玄、「戦の天才」と称された二人の武将が小田原攻めに失敗し、その後同盟を結ぶ道を選んだという事実が、「小田原城」を難攻不落の城と称されるようになった、決定的な理由でしょう。
難攻不落の小田原城の象徴、全長9㎞「総構え」はいつ造られたのか?
「小田原城」を体感するのであれば、天守だけを観に行くだけでは片手落ちと言わざるを得ません。ぜひ「総構え(そうがまえ)」を体感していただきたいです。天下統一を目前にした豊臣秀吉がいよいよ関東攻めを仕掛けてくる、そんな噂が全国を駆け巡った1587年、北条氏は「総構え」の建造を決断します。寺社の鐘楼を鉄砲の玉に変えるので献上しろ、だとか、15歳から70歳までの男子は軍役を勤めよ、であるとか、さながら第二次世界大戦末期の日本のような、挙国一致の体制で豊臣秀吉を迎え撃つ準備を行いました。その結果としてとてつもない要塞を完成させます。それが「総構え」です。ただでさえ上杉謙信や武田信玄を蹴散らした、難攻不落の城であった「小田原城」は、さらなる防御力を手に入れたことになります。
結局その時は戦は避けられましたが、この投資によって北条家の財政は困窮を極めることになります。そんな折、豊臣秀吉から上洛を迫られましたが、財政難ですぐには対応できません。そんなこんなしているうちに勃発したのが「名胡桃城事件」でした。この事件の起こった場所は、小田原から遠く離れた群馬と新潟と長野の県境の周辺です。このあたりはずっと北条氏、真田氏、上杉氏が領土争いをしていた最前線でした。北条氏の家臣が真田氏の「名胡桃城」を攻め落としてしまいます。戦国時代ですので、ごく普通のことのように思いますが、実はこの頃、豊臣秀吉は大名間での領土争いを禁ずる「惣無事令」を出しておりました。真田氏は北条氏がこの命令に背いたとして豊臣秀吉に陳情を申し立てます。豊臣秀吉の命令を破った北条氏はけしからん、ということで、北条攻めが決まってしまったんですね。前述のように、北条氏の領土を狙っていた上杉氏が裏で動いたとの話もあるようです。また、北条氏は徳川氏と仲が良かったようですから、徳川氏の力を削ぐ狙いもあったようですね。もしもこの時、反豊臣氏として徳川・北条・伊達連合軍が出来上がり、「小田原城」で豊臣軍を迎え撃っていたとしたら、どうなっていたでしょう。「名胡桃城事件」が起きなければもう少し小田原攻めは遅くなっていたと思いますし、その間に連合軍が実現したかもしれないと思うと、運命の妙を感じずにはいられませんね。
関東ローム層の地質を活かした「総構え」を観に行こう!
城の防御と言えば石垣の城壁を思い起こすと思いますが、流石に全長9㎞を石垣で囲むわけにはいきません。ではどのようにして「総構え」を構築していったのでしょうか。基本的には、北西及び南西部には丘陵地を、北東部は渋取川周辺の湿地帯、南東部は相模湾を、というように自然環境を最大限に活かしています。そこに手を加えていくわけですが、その大前提となっているのが関東ローム層と言われる粘土質の赤土です。水分を含むと、とても滑りやすく、坂を登っていくのは至難の業です。小田原城の総構えは、この特質を最大限に活かして、土塀や掘を駆使し、防御壁を構築しています。その様子が体感できる場所をいくつかご紹介いたします。
谷津御鐘ノ台
小田原駅のほぼ北部、歩いて15分程度の丘陵地にあります。北の方に丘陵地を下っていくと、総構の堀が現れます。
城下張出(しろしたはりだし)
遺構は城源寺さんの裏山にあります。「小田原城」では城外へと張り出す構造をとっていますが、北端に位置している事から北面の最前線基地だったと考えられます。小田原駅より北西に向かって歩いて20分ぐらいのところです。箱根外輪山から伸びる丘陵の先端に位置していますので、東側では総構の堀が低地部から丘陵地へと登っている姿を確認できます。北側は既に開発されており、民家が立ち並んでいますが堀の痕跡をみることができます。
稲荷森
小田原駅の西方面に歩いて25分ぐらいの場所にあります。入り口には案内が書かれた杭が刺さっていますので見落とさないようにしましょう。入っていくと堀が見えてきます。空掘が残されており谷津丘陵に沿って巡らされている様子が見て取れます。深さ10mくらいはあるでしょうか。底から駆け上がって攻めてくるのがいかに困難かが体感できる場所です。
他にも見どころは多数ありますので、歩いて回るのは少ししんどいかもしれませんね。タクシーをチャーターするなんてのも良い方法かもしれません。広く参加者を募った、見学会なども企画されているようです。「小田原城」見学は、復元天守だけでなく、ぜひ「総構え」見学にも足を伸ばしてください。
天守に登り、周りを囲まれた時の北条氏の心情を慮る
小田原市は景観を守るため2006年に建造物の高さ制限をしており、小田原城より高い建造物を造ることが出来ません。そのおかげで「小田原城」に登ると、当時と近しい景観を楽しむ事が出来ます。最上階は展望フロアになっており、晴れた日は相模湾を一望することができ、遠くは房総半島まで見通すことができます。実は小田原攻めの際、相模湾は蜂須賀氏や長曾我部氏の船で海を埋めつくされていたそうです。
また一夜城で有名な「石垣山」も、もちろん確認することができます。1590年、豊臣秀吉が小田原城攻めの本陣として、一夜のうちに周囲の木々を伐採し、城を建てたと言われていますが、実際には4万人の力で3か月弱の時間を要しました。一夜にして城を造ったのは後世に大げさに伝わったのだと思います。しかし一夜で小田原城を見下ろす場所に本陣を出現させたのは事実だったのでしょう。豊臣軍は「総構え」の前に攻めあぐねていたようでしたから、圧力で降伏させようという方針に切り替えようという意図があったのだと思います。
鉄壁の総構えがあるとはいえ、「小田原城」は20万からの大群で囲まれ、海はふさがれ、山の上から見降ろされている状況ではどうすることもできません。それを察知した時の北条氏の人々の心情はどうだったのかと、想像せずにはいられません。
「そうか、もう全ての大名が豊臣秀吉の臣下に下ったのか、もう抵抗しても無駄なんだなぁ」って北条氏直(ほうじょううじなお)思わせるのに充分な演出だったんだと思います。
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