朱治は孫権にとっては、自分を推挙してくれた恩人であり、しかも呉郡の名族であり、
至れり尽くせりの厚遇を与えていたが、モノには限度というものがある。
以下は、正史三国志朱治伝より
孫権はいつも朱治が国家の為に万全を尽くして働いている事を驚嘆していた。
彼の性格はつつましやかで、富貴な地位にあっても、
車馬や服飾は仕事の上でどう見ても必要なものを用いるだけであった。
孫権は彼に特別待遇を与え、直接に督軍と御史に命じて、朱治の統治する城市の文書は彼らに処理させ、
朱治には4つの県の租税だけを取り扱わせる事にした。
ところが皇族の子弟や呉郡の四姓たちが多数、彼の郡役所に出仕することとなり、
その郡の役人は、いつも数千人という規模になって、朱治が数年に1度、
呉王の役所にご機嫌伺いの使者を出す時には、派遣する数が数百人になった。
呉には、全体で官吏が32000人いたそうだから下手をすると1/10くらいが呉郡に集中していたかも知れない。
呉には、16郡あるので、普通の郡よりは人数が大きい事になる。
いくら、都とはいえ、一郡に関わる役人の数が多すぎないか?
また、後漢の頃は、癒着を避ける為に、自分の出身地の郡には派遣されない決まりだったと記憶している。
皇族は兎も角、呉郡の四姓は、呉郡でだけは就職できないはずだが、孫呉ではOKだったのだろうか?
一言でいって、なんかゆるゆるだな…