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太史慈の死
しかし孫策は早くにこの世を去ります。残された太史慈は孫権の下に留まり、黄祖討伐などでも活躍をしました。
しかしそんな太史慈も206年に病死。
赤壁の戦いより以前に亡くなるということもあってか、正史三国志の方ではあまり目立たない武将の一人とも言えるでしょう……その最期の言葉を除けば。
太史慈の最期の言葉
これから、と思う頃に病死してしまう太史慈ですが、彼の最期の言葉には謎が多く残されています。これは裴松之の注によるものですがなんと太史慈、その最期に
「男に生まれたからには長剣持って天子の階段を上るべきだったのにそれも実現できないまま死ぬことになるとは」
という、言葉を残したとされています。この言葉、言葉のままに受け取ると太史慈は「皇帝になろうとしていた」ということになるのです。そう、これこそが筆者が太史慈をただの忠義心に溢れた人物ではなく、野心家、と思う理由です。
野心家・太史慈
前述したように、太史慈には上奏文ビリビリ事件という忠義心に溢れた人物とは思えないような、むしろ人の裏をかくのが得意なような面があります。その一件だけならば「やらかして反省した」「忠義心に溢れた人物になった」とも思えるのですが、そこから孫策の下に来てから最期の言葉がこの言葉。最期の最期で物騒すぎる一言、しかし最期だからこそ覗かせた野心家太史慈の一面とも言えるのではないでしょうか。
太史慈という男
因みに母親が世話になったからと孔融の下を訪れて活躍したり、孫策の信頼に応えたりと、太史慈は決して悪人ではありません。世話になった仁義を通すだけの人物であったと言えるでしょう。
ですがその心の端で、天下を狙い、皇帝になりたいと願っていた……そう思うと、太史慈はある意味で劉備に似ていたのかな、と思うのです。違いと言うと太史慈は早くに病死、劉備は「いい年になったけど天下に何もできてねぇ!」と嘆くだけの時間があった、という所でしょうか。太史慈、もっと生きていたら何をしていたか……そう思うと、面白い武将だな、と思いました。
三国志ライター センのひとりごと
太史慈の伝を見る限り、太史慈はきちんと実力も持っている人物です。他の武将よりもやや影が薄いのは、やはり赤壁よりも前、という早い段階で病死してしまっているため、知名度がそこまで高まらなかった、エピソードが少ないので三国志演義などでも出番が少ないということもあるかと思います。
太史慈がもっと生きていたら、乱世はどうなったでしょうか。もしかしたら今からでは想像もつかない三国志の一幕が見れたのかもしれませんね。
参考文献:呉書太史慈伝
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