黄祖(こうそ)とはどんな人?正当防衛なのに孫家に恨まれ続けて殺された人

2017年3月3日


 

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黄祖(こうそ)は荊州の劉表(りゅうひょう)の配下の将軍です。

彼には個人の伝はありませんが、三国志呉志にやたらに名前が出るので

その影響で三国志演義でも出てきますが、残忍で狭量な人物でハッキリ言って

孫権(そんけん)に仇を討たれる為に出てくると言うべき扱いです。

史実での彼は、孫堅(そんけん)を討ち取るという功積を挙げますが、その為に、

孫家及び、呉の面子に激しく恨まれ執拗に狙われるようになるのです。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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切っ掛けは襄陽の戦いだった

 

董卓(とうたく)連合軍の崩壊後、劉虞(りゅうぐ)擁立のごたごたもあり、

袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)の対立は決定的になりました。

袁術は遠交近攻策を取って、袁紹の背後の公孫瓚(こうそんさん)と結び、

それに対抗した袁紹は袁術の本拠地の南陽の下の劉表(りゅうひょう)と結びます。

 

そこで、中国南部から袁紹の勢力排除を狙う袁術は

荊州南部の襄陽攻略を配下の孫堅に命じました。

劉表は、ここで江夏城の黄祖を呼び出して樊城で防戦を指示します。

樊城と襄陽の間には長江の支流の漢水があって樊城と襄陽は

連携して敵と応戦する形になっていました。

 

しかし、この戦いが黄祖の人生のケチのつき始めになります。

 

破竹の孫堅軍、樊城を落して襄陽を包囲する

 

孫堅軍は、樊城に猛烈な勢いで襲い掛かります。

実は、孫堅は年齢こそ、曹操(そうそう)と変わりませんが

戦争のキャリアは10年以上長く経験豊富です。

ましてや戦慣れしていない黄祖など相手にならず、あっと言う間に

樊城は陥落、黄祖は漢水を渡って襄陽城に逃げ込みます。

 

追撃した孫堅は簡単に漢水を渡ると、襄陽城を包囲しました。

ピンチになった劉表は黄祖を呼び出し「夜陰に乗じて兵を集めてこい」と

かなり危険な任務を出します。

 

しかし、それはすでに孫堅に読まれていました。

追撃された黄祖は、襄陽城に入る事も出来ず峴山(けんざん)のひそみに隠れました。

このままだと襄陽城は孤立無援で落城するパターンです。

 

孫堅、率先して山狩りを開始、そして悲劇が・・

 

「がっはっは!黄祖め、俺様にブルって山に逃げ込みおったわ!

よーし!山狩りじゃあ、黄祖を生け捕りバラして劉表に見せてやれ」

 

勢いに乗る孫堅、こうしてよせばいいのに

見通しの効かない山に自ら率先して入りこんでしまいます。

 

はい、孫堅アホです、余りにもアホ過ぎます。

見通しが効かない山に伏兵は常識ではないですか?

こう言う時は、別の将を派遣して自分は安全な場所で

報告を待つというのが常識というものです。

 

案の定というか当然というか、黄祖は伏兵を配置していました。

そして名もなき弓兵の伏兵エリアに踏み込んだ孫堅は山のような矢に射られ

為す術も無く絶命してしまうのです。

一説では、呂公(りょこう)が落した岩に押しつぶされ即死したとも言われます。

 

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孫堅が死に、軍は引き上げる・・

 

孫堅が死んで、形勢は逆転、戦争は劉表の勝利に終わります。

戦死者は劉表側が圧倒的に多いのですが、大将を討たれた孫堅軍には

戦争を続ける気力が残っていませんでした。

この時、孫堅軍の桓階(かんかい)が危険を承知で襄陽城に行き、孫堅の遺体を

引き取りたいと願い出て、劉表はその心意気を評価して遺体を返却しています。

いずれにせよ、この時から、孫家にとって黄祖は孫堅の仇になりました。

 

孫策、孫権と受け継がれる恨み・・

 

孫堅の後を孫賁(そんほん)から受け継いだ孫策(そんさく)

黄祖を討ち取り劉表を破って父の仇を討とうと決意していました。

弟の孫権も、孫策から恨みを吹き込まれたと見え、常に箱を持ち歩き

「黄祖を討ったら首を箱の中にいれて父上の墓前に備える」

とまで言っていたようです。

 

おまけに黄祖が守る江夏城は、孫呉の土地に近く真っ先に狙われます。

黄祖にしてみれば、孫堅が侵略してきたから撃退しただけで、

こんなに恨まれる覚えはないでしょうが、仕方ないのです。

呉の人々は一度恨むと、なかなか一般常識が通りません・・

 

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西暦199年、孫策の来襲を黄祖は受け止める

 

西暦199年、孫策の攻撃を受けて、晥城を放棄した劉勲(りゅうくん)

西塞山に陣を敷いて、黄祖に援軍を求めたので、黄祖は息子の黄射(こうしゃ)に

五千を与えて救援します。

 

ですが、孫策は援軍が来る前に西塞山を落し、劉勲は黄祖の下へ逃げ、

黄射の援軍は空振りに終わりました。

 

その後、孫策は大軍を擁して、憎っくき黄祖を討ち取ろうと江夏城を攻めます。

黄祖は劉表に救援を求め劉虎(りゅうこ)と韓唏(かんき)が五千の兵を率いて

援軍としてやってきます。

 

黄祖は援軍を前面に出して戦いますが、孫策は周瑜(しゅうゆ)

呂範(りょはん)、程普(ていふ)孫権韓当(かんとう)黄蓋(こうがい)という

オールスターで攻撃し、劉虎と韓唏は戦死、黄祖は二万という軍勢を失い、

さらに後退して夏口に陣を敷きます。

 

大ピンチになった黄祖ですが、孫策はそれ以上は攻めず、

豫章(よしょう)平定に向かい黄祖は命拾いします。

 

西暦203年、208年と孫権に攻められ黄祖死す

 

孫策が刺客に襲われて死に、しばらくは安泰だった黄祖ですが、

西暦203年、孫呉の3代目(孫賁を入れると4代目)孫権は国を安定させてから

軍を興して、再び「父の仇~!」とばかりに江夏城を攻めます。

しかし、この頃の高祖の配下には甘寧(かんねい)という水戦の名手がいました。

 

この江夏城は文字通り川の側なので船の戦いが主になります。

水軍が未整備だった孫呉の軍は甘寧の操船術の前になす術なく倒れ、

校尉の凌燥(りょうそう)が戦死しました。

 

ところが奇跡が起きます、甘寧が孫呉に降伏したのです。

理由は大活躍したのに、何の恩賞も黄祖から貰えない事でした。

 

西暦208年、二度目の黄祖との戦いが開始されます。

黄祖は川幅の狭い場所に軍艦を二隻、碇で川底に固定して、

そこに千名の弓兵を配置、孫呉の軍勢に雨あられと矢を浴びせ掛けます。

 

ですが、今度は孫権も考えていました、董襲(とうしゅう)と凌統(りょうとう)

鎧を二重に着込んだ決死隊二百名で川に飛び込み、碇の綱を切って軍艦を流したのです。

そこへ水軍が殺到し、黄祖は敗北、逃げようとする所を孫権軍の騎兵、

馮則(ふうそく)なる人物に追いつかれ首を刎ねられました。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

黄祖というと、禰衡(でいこう)を殺したり、甘寧を粗末に扱い裏切られる等、

粗暴で悪役の側面が強いですが、よく考えると、孫堅の死は不用意に山に入った

自業自得であり、黄祖がこうまで恨まれる理由はありません。

 

西暦199年、203年、208年と三度も攻められた黄祖は、

「俺以外にも恨む相手がいるだろ?」と理不尽な想いをしたでしょうね。

しかし、黄祖が頑張ったお陰で孫堅迎撃を命じた真の黒幕、劉表は天寿を全うし

ついに復讐の刃を受ける事はありませんでした。

それもそれで、戦争の理不尽さを感じずにはいられません。

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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