こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
奉公衆の規模はどの程度?
では、奉公衆の規模はどの程度だったのでしょうか?
8代将軍足利義政の時代の奉公衆の編成を示す「御番帳」によると、奉公衆は五番編成で、各番の兵力は50人から100人総勢では300人から400人ほどだったと考えられています。
ただ、これは旗本だけの数で、ここに各番が抱える若党や中間のような小者も含めると、平均して5000から10000人の規模がありました。当時としても大軍とは言いませんが、平時の編成としては立派な人数です。
奉公衆の構成は、日本中世史家の福田豊彦の分析によると、
①足利一門及び守護大名の庶流
②根本被官・家僚のような足利将軍家の古い家臣
③地方の有力国人領主
このような3つの階層に分かれ、地域的には近江国、美濃国、尾張国、三河国、摂津国や北陸、山陽・山陰の出身者から取り立てられ、また世襲であった事から、各番の連帯感は強固で応仁の乱等では、共同して行動しているようです。
甦る奉公衆
細川政元により幽閉された足利義材は、近臣の手を借りて脱出、室町幕府に対抗して自身も幕府を開いて対決姿勢を打ち出します。これにより、足利義材と足利義高(義澄)の2派で、別々に奉公衆が再編される事になります。その後、足利義澄の没後12代将軍に就任した足利義晴の時代には、領国に戻ったり没落した守護大名に代わり、大舘氏や佐々木流細川氏が欠員登用されました。
13代将軍足利義輝が永禄の政変で暗殺されると、阿波から来て14代将軍に就任した足利義栄には足利義稙以来の奉公衆に加え足利義輝の奉公衆だった者も合流します。一方で、越前に逃れた足利義昭の将軍擁立を図る奉公衆もいて、奉公衆が入り乱れるようになりました。
足利義輝の弟、足利義昭は織田信長の支援で15代将軍に就任しますが、足利義栄に味方した奉公衆の多くを許さず追放されたので、欠員が発生、安見宗房のように新たに奉公衆に取り立てたり奉公衆とは別に義輝時代に創設された足軽衆の整備が図られました。一説に明智光秀は、奉公衆ではなく足軽衆に所属していた美濃明智氏の庶流とも言われているようです。
義昭追放後、明智光秀の精鋭部隊に
天正元年(1573年)足利義昭は織田信長によって京都から追放されますが、義昭と行動を共にした奉公衆は全体の2割ほどで大多数は信長に従ったようです。
どうして、そうなったのかと言うと、なんでも足利義昭は奉公衆に冷淡で、その待遇を悪化させたのに対し、信長が奉公衆の保護を求めたようで、それも義昭と信長の対立の一員だったとか…
それならば、多くの奉公衆が義昭を見限るのも無理もないかも知れません。
しかし、奉公衆は滅びる事なく、強力な番意識に支えられ、明智光秀の中心的な家臣として生き残り、石谷氏(斎藤利三)肥田氏、進士氏など旧奉公衆が参加していました。元々、足利義昭に仕えていた幕臣の明智光秀の方が、奉公衆としても仕えやすかったのかも知れませんね。
戦国時代ライターkawausoの独り言
奉公衆の待遇を悪くしたらしい足利義昭ですが、まだ将軍に就任する前、近江の矢島に御所を置いていた時、突如、三好三人衆の兵に襲撃された事があります。この時に、義昭を守り三好勢を撃退したのは、大草氏を中心とする奉公衆だったようです。一歩間違えば、兄義輝と同じ運命の所を救われたのですから、義昭、もう少し奉公衆を大事にすればよかったのにねェ…
参考:Wikipedia
関連記事:細川藤孝はどんな人?格下の光秀に下克上された元上司なのか?