公方様を守れ!足利将軍親衛隊「奉公衆」を紹介

2020年10月18日


はじめての三国志_ページネーション

こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。

足利将軍親衛隊「奉公衆」(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



奉公衆の規模はどの程度?

細川勝元

 

では、奉公衆の規模はどの程度だったのでしょうか?

 

8代将軍足利義政の時代の奉公衆の編成を示す「御番帳(ごばんちょう)」によると、奉公衆は五番編成で、各番の兵力は50人から100人総勢では300人から400人ほどだったと考えられています。

 

ただ、これは旗本だけの数で、ここに各番が抱える若党や中間(ちゅうげん)のような小者も含めると、平均して5000から10000人の規模がありました。当時としても大軍とは言いませんが、平時の編成としては立派な人数です。

 

奉公衆の構成は、日本中世史家の福田豊彦の分析によると、

 

①足利一門及び守護大名の庶流

根本被官(ねもとひかん)家僚(かりょう)のような足利将軍家の古い家臣

③地方の有力国人領主

 

このような3つの階層に分かれ、地域的には近江国、美濃国、尾張国、三河国、摂津国や北陸、山陽・山陰の出身者から取り立てられ、また世襲であった事から、各番の連帯感は強固で応仁の乱等では、共同して行動しているようです。

 

甦る奉公衆

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

細川政元により幽閉された足利義材は、近臣の手を借りて脱出、室町幕府に対抗して自身も幕府を開いて対決姿勢を打ち出します。これにより、足利義材と足利義高(よしたか)義澄(よしずみ))の2派で、別々に奉公衆が再編される事になります。その後、足利義澄の没後12代将軍に就任した足利義晴(あしかがよしはる)の時代には、領国に戻ったり没落した守護大名に代わり、大舘氏(おおだちし)佐々木流細川氏(ささきりゅうほそかわし)が欠員登用されました。

 

足利義輝

 

13代将軍足利義輝が永禄の政変で暗殺されると、阿波から来て14代将軍に就任した足利義栄(あしかがよしひで)には足利義稙以来の奉公衆に加え足利義輝の奉公衆だった者も合流します。一方で、越前に逃れた足利義昭の将軍擁立を図る奉公衆もいて、奉公衆が入り乱れるようになりました。

 

織田信長

 

足利義輝の弟、足利義昭は織田信長の支援で15代将軍に就任しますが、足利義栄に味方した奉公衆の多くを許さず追放されたので、欠員が発生、安見宗房(やすみむねふさ)のように新たに奉公衆に取り立てたり奉公衆とは別に義輝時代に創設された足軽衆の整備が図られました。一説に明智光秀は、奉公衆ではなく足軽衆に所属していた美濃明智氏の庶流とも言われているようです。

 

義昭追放後、明智光秀の精鋭部隊に

明智光秀(麒麟がくる)

 

天正元年(1573年)足利義昭は織田信長によって京都から追放されますが、義昭と行動を共にした奉公衆は全体の2割ほどで大多数は信長に従ったようです。

 

どうして、そうなったのかと言うと、なんでも足利義昭は奉公衆に冷淡で、その待遇を悪化させたのに対し、信長が奉公衆の保護を求めたようで、それも義昭と信長の対立の一員だったとか…

 

それならば、多くの奉公衆が義昭を見限るのも無理もないかも知れません。

 

しかし、奉公衆は滅びる事なく、強力な番意識に支えられ、明智光秀の中心的な家臣として生き残り、石谷氏(いしだにし)(斎藤利三)肥田(ひだ)氏、進士(しんし)氏など旧奉公衆が参加していました。元々、足利義昭に仕えていた幕臣の明智光秀の方が、奉公衆としても仕えやすかったのかも知れませんね。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

奉公衆の待遇を悪くしたらしい足利義昭ですが、まだ将軍に就任する前、近江の矢島に御所を置いていた時、突如、三好三人衆の兵に襲撃された事があります。この時に、義昭を守り三好勢を撃退したのは、大草氏を中心とする奉公衆だったようです。一歩間違えば、兄義輝と同じ運命の所を救われたのですから、義昭、もう少し奉公衆を大事にすればよかったのにねェ…

 

参考:Wikipedia

 

関連記事:細川藤孝はどんな人?格下の光秀に下克上された元上司なのか?

関連記事:【麒麟がくる】剣豪足利義輝の最期は超みじめだった

 

織田信長スペシャル

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-戦国時代 (日本)
-,