公方様を守れ!足利将軍親衛隊「奉公衆」を紹介




はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし逃げ回る足利義昭

 

大河ドラマ麒麟がくるにも登場する、将軍足利義昭(あしかがよしあき)の重臣、細川藤孝(ほそかわふじたか)三淵藤英(みつぶちふじひで)。彼らは将軍に直属する親衛隊である奉公衆(ほうこうしゅう)と呼ばれる組織に属しています。

 

征夷大将軍(せいい・たいしょうぐん)である以上、もちろん自らを護衛する親衛隊がいるに違いないと私達は考えてしまいがちですが、実は室町幕府の初期にはそんな組織は存在しませんでした。今回は足利将軍最後の切り札、幕府奉公衆について分かりやすく解説します。




当初から崩壊寸前の室町幕府

京都御所

 

建武5年(西暦1338年)足利尊氏(あしかがたかうじ)が征夷大将軍に任じられて樹立した室町幕府ですが、その治世は最初から波乱含みでした。

 

足利尊氏という人は、天性のカリスマの持ち主で、極めて気前がよい大将でしたが、政治的には優柔不断で周囲に流される性格。幕府樹立に尽力した有力守護大名の力を抑え込むという後始末をしないまま、病気で死んでしまうのです。

 

一方で、南朝方も後醍醐天皇(ごだいごてんのう)崩御(ほうぎょ)の後、後村上天皇(ごむらかみてんのう)を立て吉野で活発な反幕活動をし、何度も京都を陥れる大活躍をしていました。

 

幕末77-14_錦の御旗

 

これでは、残された2代目、3代目の尊氏の後継者は、たまったものではありません。元勲顔(げんくんづら)をして堂々と幕政に口を出す守護大名を(おど)したり(なだ)めたりしつつ、薄氷(はくひょう)を踏むような政権運営を余儀なくされたのです。




殺す気か!康暦の政変を契機に親衛隊設立

足利義満

 

2代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)が守護大名の権力抗争と南朝の進撃に疲れ、死の2日前に大量の鼻血を噴いて、在職9年38歳で死去すると嫡男で11歳の足利義満が将軍に就任しました。

 

この直前には貞治(じょうじ)の変が起きて、管領(かんれい)斯波義将(しばよしゆき)とその父、斯波高経(しばたかつね)が失脚。幼少の義満の後見人には、反斯波・山名派の佐々木道誉(ささきどうよ)や赤松氏、鎌倉公方足利基氏(あしかがもとうじ)の推薦を受け、阿波、讃岐、土佐3カ国の守護大名、細川頼之(ほそかわよりゆき)が就任します。

 

しかし、頼之の政治は政敵である斯波氏や山名氏との派閥抗争や、南朝の反抗、今川了俊(いまがわりょうしゅん)による九州征伐の長期化で難航しました。康暦(こうれき)元年(1379年)頼之が養子の細川頼元を総大将に派遣した紀伊の南朝征討が失敗。

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

これを受けて義満が反頼之派の山名氏清(やまなうじきよ)や斯波氏、土岐頼康(ときよりやす)に兵を与えて南朝討伐を命じると諸将は紀伊には向かわず、頼之をクビにするよう訴えて京都へ兵を進めます。おまけに途中で反頼之派に鞍替えした京極高秀(きょうごくたかひで)らも山名氏清、土岐頼康に加担、御所を軍勢で包囲しました。クーデター康暦の政変です。

 

山名氏清や土岐頼康の武力に屈した義満は、細川頼之をクビにし京都を追放しますが、内心は穏やかではありません。ダチョウの竜ちゃん風に言えば「お前ら殺す気か!」という感じです。

 

内容に納得がいかないkawauso様

 

そこで、足利義満は、我が身を守る為、御馬廻(おうままわり)と呼ばれた将軍直属の親衛隊の整備を開始しました。逆に言うと康暦の変まで、幕府には将軍個人を守る大規模な武装組織は存在しなかったのです。合戦ばかりしているのに、なんとも呑気な政権だと感じるのはkawausoだけでしょうか?

 

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応永の乱で姿が見える親衛隊

日本戦国時代の鎧(武士)

 

足利義満が創設した御馬廻の姿は、応永6年(1399年)守護大名の大内義弘が室町幕府に対して起こした応永の乱で登場します。

 

ここでは、大内義弘治罰(じばつ)御教書(ごきょうじょ)を出した義満が、堺に立て籠もった義弘に対し、細川頼元、京極高詮(きょうごくたかあきら)、赤松義則の先発隊6000余騎に続き馬廻2000余騎を率いて東寺に陣を構えたとあります。

 

また山名氏清を京都で迎え撃った1391年の内野合戦では、幕府軍は京へ侵攻する山名軍を迎え撃つべく主力5000騎を旧平安京の大内裏である内野に置き、義満と馬廻(奉公衆)5000騎は堀川の一色邸で待機していました。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

この戦いで馬廻は大活躍しており、将軍直轄軍の有益さが分かります。それでも、4代将軍足利義持(あしかがよしもち)の頃には、まだ幕府は畠山氏や大内氏の軍事力に依存していましたが、「万人恐怖」と呼ばれた6代将軍足利義教(あしかがよしのり)は、義持の時代に凋落した将軍権力を取り戻そうと幕府奉公衆再編に着手します。

 

ところが、その途中義教は守護大名の赤松満祐(あかまつみつすけ)に暗殺されて奉公衆再編は頓挫(とんざ)します。将軍権力の象徴としての奉公衆の確立は次代に持ち越される事になりました。

 

将軍親衛隊として完成するも明応の政変で崩壊

馬にのり凱旋する将軍モブ

 

一度は頓挫した、将軍親衛隊の確立は、応仁の乱を経た9代将軍の足利義尚(あしかがよしひさ)の時代に、文官である奉行衆と武官の奉公衆を並立する形で確立します。その後、文明17年(1485年)4月の奉行衆と奉公衆の抗争で義尚は一貫して奉公衆を支持て奉公衆の信望を集めていきました。その甲斐あり、長享と延徳の乱での近江元守護の六角高頼討伐では、奉公衆が将軍の親衛隊として活躍しています。

 

義尚病死後、10代将軍に就任した足利義材(あしかがよしき)義稙(よしたね))は、延徳(えんとく)3年(1491年)に奉公衆を含む2万の軍勢を率いて六角高頼(ろっかくたかより)征伐を行い、高頼軍の壊滅に成功。

 

細川政元

 

実力を見せつけた義材は、明応2年(1493年)には、河内の畠山義豊を討伐する為に出陣しますが、ここで明応の政変が起り、義材は管領細川政元(ほそかわまさもと)により将軍職を廃位され幽閉されます。細川政元は、将軍を操るのに都合が悪い奉公衆の制度を廃止。室町幕府の親衛隊は一時消滅しました。

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