【麒麟がくる】剣豪足利義輝の最期は超みじめだった




足利義輝

 

一般には剣豪将軍(けんごうしょうぐん)として知られる武闘派(ぶとうは)足利義輝(あしかがよしてる)

 

火縄銃(鉄砲)

 

「麒麟(きりん)がくるでも、細川藤孝(ほそかわふじたか)明智光秀(あけちみつひで)小競(こぜ)り合いを止め、新兵器である鉄砲の量産を本能寺に命じる英明な君主として登場してきます。しかし、史実における足利義輝は、永禄(えいろく)の変で部下に討たれた悲劇性から判官(はんがん)びいきされ、かなり活躍が盛られた人物であったようです。

 

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剣豪将軍のイメージは日本外史の創作

幕末 魏呉蜀 書物

 

足利義輝と言えば、永禄の変で三好氏の軍勢1万2千で御所を包囲されて死を覚悟し、将軍家伝来の刀を地面に突き刺して、敵を斬って刀がダメになると、次々と刀を変えて斬りまくり、恐れた敵方が(たたみ)を押し立てて義輝を抑え込んで槍で突き刺したという壮絶な最期が有名ですが、日本外史は文政十年(1827年)頼山陽(らいさんよう)により書かれたものであり、義輝が死んだ同時代の史料で、義輝が凄絶に戦い散ったとする記述はありません。

 

宣教師 ルイスフロイス

 

逆に、永禄の変のその時、京都にいて一部始終(いちぶしじゅう)を見聞きして記録に残した人物がいます。それが宣教師、ルイス・フロイスで、彼の残したフロイス書簡には、足利義輝のリアルかつ、かなりみじめな最期が記録されているのです。

 

※注意:フロイスの伝える足利義輝の最期は、みじめなので剣豪将軍のイメージを崩したくない人は、読まない事をおススメします。




脱出未遂が義輝の運命を決した

 

永禄八年(1565年)5月1日、将軍足利義輝は、1万二千人の兵を率いて上洛してきた三好義継(みよしよしつぐ)に面会し、左京大夫(さきょうだいふ)の地位と、「義」の偏諱(へんい)を与えました。この頃までは、表面上良好に見えた両者の関係ですが、義継が義輝に自邸(じてい)へ訪ねてくるように要請すると、大軍を(よう)している義継の態度を怪しんでこれを拒否しています。これに対し義継は、疑うならば将軍の生母である慶寿院(けいじゅいん)の屋敷でも構わないと譲歩(じょうほ)したので、義輝は渋々ながら受諾(じゅだく)しました。

 

幕府の旧式軍隊

 

しかし、5月18日、永禄の変の前日、足利義輝は御所(ごしょ)からの逃亡を実行します。フロイス書簡(しょかん)によると、理由は三好氏が謀反(むほん)(たくら)んでいる事を大いに恐れたためでした。もし、三好の軍勢に御所を包囲されれば対抗する力がないので、義輝は他国に逃れようと画策し、名目を偽り寵臣(ちょうしん)数名を率いて人目を忍びつつ御所を出ます。そして、御所から3キロばかり進んだ時点で、義輝は寵臣に京都を脱出する旨を打ち明けましたが、全員が脱出に反対します。

 

 

理由は謀反の証拠も明らかではないのに、部下を恐れて逃げるようでは将軍の権威に関わり、かつ義輝は三好氏を害するような事は何もしていないので謀反などあり得ないというもので、万が一、謀反が起きれば、全員が責任を取り切腹すると断言しました。これにより、義輝はすごすごと御所に帰還(きかん)してしまうのです。しかし、この脱出未遂(みすい)は、逆に義輝に謀反を招き寄せてしまいます。

 

【信長を討った明智光秀の波乱の生涯】
麒麟がくる

 

義輝の落とし前を求めて御所を包囲する三好軍

 

翌日永禄八年5月19日は、平穏無事(へいおんぶじ)に始まります。三好義継は早朝、騎兵七十を率いて清水寺(きよみずでら)参詣(さんけい)に向かいますが、途中で進路を変更して引き消し、洛外に待機させていた軍勢を率いて義輝の御所を包囲します。

 

フロイス書簡では、清水寺参詣は、謀反をカムフラージュしたものとしてますが、清水寺参詣がどうしてカムフラージュになるのか不明なので、そうではなく清水寺参詣の途中に、将軍義輝逃亡未遂の情報が三好義継の耳に入ったと考えられます。

 

ここで義輝に逃げられれば、また、義輝を担ぐ勢力と三好氏との抗争は避けられない事になります。これに激怒した三好氏は御所を包囲して、大量の鉄砲隊を突入させて銃口を御所に向け、義輝に落とし前を要求しました。

 

長篠の戦い(鉄砲一斉射撃)

 

その落とし前とは、老臣の進士晴舎(しんしはるいえ)、そしてその娘で義輝の側室である小侍従(こじじゅう)、それに義輝の逃亡を(そそのか)したと考えられる寵臣を義輝が自ら処刑する事でした。それさえ実行するなら、大人しく軍を引き上げると三好義継は約束します。しかし、要求を聞いた進士晴舎は主君の御所を包囲した三好氏を大いに批判し、要求をはねつけて御所に入り、義輝の前で自殺しました。

 

進士晴舎は、三好氏と将軍義輝を繋ぐパイプ役であり、晴舎の死は義輝と三好氏の断交を意味していました。こうして謀反人(むほんにん)認定された三好氏は方針を変更、将軍殺しを決意します。

 

致命傷は額の矢!義輝のトホホな最期

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

 

こうして永禄の変が勃発(ぼっぱつ)しますが、フロイス書簡は、義輝の最期を以下のように記述します。

 

<前略>三好勢は、宮殿に火を掛けるよう命じた。公方(くぼう)(義輝)様が自ら出ようとしたが、その母堂(ぼどう)(慶寿院)は彼に抱きつき引き留めた。彼女は我ら(フロイス等)を大いに歓迎した尊敬すべき老婦人であった。しかし、彼は火と必要に迫られ、家臣とともに出て戦い始めたが、腹に一槍(いっそう)(ひたい)一矢(いっし)、顔に二つの刀傷を受け、その場で果てた。<後略>

 

海上での戦い(地図と本)

 

フロイス日本史では、義輝は薙刀(なぎなた)を持って奮戦したと書かれていますが、フロイス日本史は、フロイス書簡をリライトしたものであり記述としては、フロイス書簡の方が古いです。記録によると、フロイス書簡の日付は永禄の変の2日後なので、リアルタイムに近いでしょう。

 

そのリアルタイムの記述では、義輝の死因は腹に一槍と額に一矢、顔に二つの刀傷と、奮戦(ふんせん)の様子はどこにもない淡々(たんたん)としたものです。ちなみに義輝の死体は、戦後に時衆僧侶(じしゅうそうりょ)に回収されて埋葬(まいそう)されているので、義輝の外傷は正確なものである可能性が高いです。時衆は、浄土教の僧侶であると共に金創医(きんそうい)として外科手術(げかしゅじゅつ)をしていた人々なので、義輝の外傷についても正確に調べていたと考えられるからです。

 

長篠の戦い(鉄砲一斉射撃)

 

そして、その致命傷(ちめいしょう)を考えるとこれは間違いなく額の矢傷でしょう。義輝は額に矢を受けて、大きく戦闘能力を損ない、たちまち敵兵に顔を二度傷つけられて倒れ、トドメに腹を槍で突かれて絶命したのです。日本外史とは違うリアルながらあっさりした義輝の最期でした。

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