【笑撃】豊臣秀長は貯蓄マニアのケチだった?

2020年10月30日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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宴会好きな豊臣秀吉

 

戦国ファンなら知らない人はいない天下人、豊臣秀吉(とよとみひでよし)。でも、その秀吉に出来の良い弟がいたというのは最近まで、あまり知られていませんでした。

 

その弟の名は豊臣秀長(とよとみひでなが)苛烈(かれつ)な性格の秀吉をよく補佐し、秀吉の天下取りの影の功労者とも言われています。しかし、優等生イメージの羽柴秀長、実は貯蓄が趣味というドケチ男だったようなのです。

 

豊臣秀長とは?

豊臣秀吉の弟・豊臣秀長

 

豊臣秀長は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で戦国大名です。豊臣秀吉の異母弟、あるいは同母弟で、豊臣政権下で内外の政務、および軍事面で才能を発揮。

 

長曾我部元親(長宗我部元親)鳥なき島のコウモリ

 

四国征伐では病気の秀吉に代わって10万の大軍を指揮して長宗我部氏を苦しみながらも降伏させる事に成功。その功績により、大和・紀伊・和泉の3カ国に河内の一部を加えた110万石の大大名になり、官途(かんと)従二位権大納言(じゅにい・ごんだいなごん)に昇進したので世間からは大和大納言(やまとだいなごん)尊称(そんしょう)されます。

 

軍議(日本史)モブa

 

九州征伐では、20万を超える豊臣連合軍の別動隊を引き受け、征伐を成功に導くなど秀吉の天下統一に大きな貢献をしました。秀吉も、弟秀長を頼りにし補佐として重用、また秀長も秀吉に異を唱えて制御できる人物でした。また、秀吉に勘気を蒙った人々の陳情を受け入れて秀吉との仲を取りなす調停の名人でもあり、秀長に命を救われた大名は1人や2人ではありません。

 

切腹する豊臣秀次

 

しかし、そんな秀長も寿命には恵まれず、小田原征伐には病気の為に出陣できず、天正19年(1591年)兄に先立つ事7年で51歳でこの世を去るのでした。秀長死後の秀吉は、独断専行が顕著になり、朝鮮出兵の失敗、甥の羽柴秀次の処刑、千利休の切腹と政治の失策が増え豊臣政権は傾いていきます。

 

九州征伐で米を高値で大名に売りつける

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

天正14年(1586年)12月1日、秀吉は小西隆佐(こにしりゅうさ)など4人の奉行に30万人分の兵糧、馬2万匹分の飼料を1年分調達することを命じ、各地より尼崎へ輸送させています。

 

これらの物資はそのまま従軍する大名に配られるのではなく、然るべき場所に兵站基地を置いて市を立て、地元の商人と物資の売買をしながら経済を円滑に回しつつ、兵糧が必要な大名に売却していました。

 

九州征伐に従軍する諸大名は、兵糧をここから買うしかないので、当然、少々兵糧が高くても買うしか選択肢がありません。そこに目をつけた羽柴秀長は大名に対し、割高の兵糧を売りつけて暴利を貪ろうとし、秀吉に叱られて止めています。

 

にぎわう市(楽市・楽座)

 

温厚な調停者らしからぬ、あるいは銭ゲバと呼ばれそうな秀長の一面です。ただ、秀長の為に弁護すると、この頃の秀吉軍は、紀伊征伐、四国征伐と大軍を動員した征伐の連続で蔵はすっからかんであり、財務を担当する秀長が切羽詰まってやったという可能性もあります。

 

(そりゃあ、藤吉郎(あに)さんはええがや 金ぴかの鎧来て 采配ふりゃあええでわしは、あにさんの兵隊さ 食わさなならん こりゃ、でらぁ えらいでの!)

 

などと、内心では愚痴(ぐち)っていたかも知れません。

 

はじめての戦国時代

 

熊野材木代金着服事件

宋銭 お金と紙幣

 

九州征伐からほどない、天正16年(1588年)紀州雑賀(きしゅう・さいか)で木材の管理をしていた吉川平介(きっかわへいすけ)という男が、熊野木材2万本を伐採して大坂で売りさばいたものの、その代金の一部を着服したとして、秀吉に報告され大和西大寺で処刑、晒し首になりました。

 

ようするに公金横領なのですが、この吉川平介の上司は羽柴秀長でした。その為、秀吉は監督不行き届きとして、秀長も厳しく叱責し、翌年の正月の礼での拝謁を許さないという厳しい措置を取ります。

内容に納得がいかないkawauso様

 

しかし、実務官僚として豊臣の財政に関与していた秀長が、本当に吉川平介の公金横領に全く気づかなかったのでしょうか?実は、熊野の材木は非常に品質が良く、寺社の建材として欠かせないものであり、江戸時代においては、江戸の木材需要の3割を賄う宝の山でした。江戸時代の紀州新宮藩(きしゅうしんぐうはん)は、この熊野木材と木炭を全国に販売して富を得ていた事も分っています。

 

これほど巨大な利権を、秀長が何も知らずに吉川平介に丸投げしていたとは考えにくく、本当は貯蓄の為に公金横領に一枚噛んでいたんじゃないかと勘繰りたくなります。

豊臣秀長の莫大な遺産

金の亡者の豊臣秀吉

 

万事に派手好きな兄、秀吉の為に、延々と金策をしていた豊臣秀長ですが、彼が51歳で死去した時、居城の大和郡山城には、金子が56000余枚、銀子は、二間四方の部屋満杯になるほど備蓄されていたそうです。

 

これだけの財産を、どうやって秀長が貯め込んだのか? いかに110万石の身代とはいえ、秀長がその石高になったのは、死の5年前ですし、大大名にはそれ相応の出費があるのが当たり前、ただ、倹約してましたというだけで、こんなにお金が貯まるわけはありません。

 

豊臣秀次

 

前述の熊野木材の事はさておき、秀次自身が自分のお金を元手に、堅実にあるいはリスキーに財テクに励んだと考えるのが自然ではないでしょうか?

 

豊臣秀長の言い分

豊臣秀吉の弟・豊臣秀長

 

豊臣秀長は、貯蓄が趣味でまた巧みでもありましたが、それは武士として当然の事でもありました。戦国の世であっても、すべてが暴力で済んだわけではなく、高い地位に就き、強い権力を持てば持つだけ、お金が必要であったのです。

 

ましてや、百姓から成り上がり、何の後ろ盾もない豊臣の成り立ちを考えれば、先祖伝来の忠義など、期待できないのは当たり前で、よりお金が必要になりました。

 

だからと言って、お金を奪ったり、借金を踏み倒せば、商人は逃げていき、二度と力を貸してはくれません。なので、秀長としてはお金を切らせるわけには行かなかったのです。秀長の貯蓄は豊臣政権の繁栄の為に、欠く事の出来ないものであり、私的に貯蓄が好きという事を上回る意味があったと考えます。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は、秀吉に比較して知名度が薄い、大和大納言、豊臣秀長を取り上げてみました。実際の秀吉は、天性の愛嬌で味方を増やすのは得意であるものの、その増やした味方を食わせる実務は不得意で、お金を集めてくる日陰の汚れ部分を担当したのが秀長であるとも言われています。

 

そう考えると、死後に多額の遺産を残した秀長がいかに財政手腕に長けていたか納得できますし、彼の死後、秀吉の繰り出す政策が精彩を欠いていく理由も分かるような気がしますね。

 

参考文献:お金の流れで知る戦国武将 マイウェイ出版

 

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麒麟がくる

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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