【笑撃】豊臣秀長は貯蓄マニアのケチだった?


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豊臣秀長は貯蓄マニアのケチ?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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豊臣秀長の莫大な遺産

金の亡者の豊臣秀吉

 

万事に派手好きな兄、秀吉の為に、延々と金策をしていた豊臣秀長ですが、彼が51歳で死去した時、居城の大和郡山城には、金子が56000余枚、銀子は、二間四方の部屋満杯になるほど備蓄されていたそうです。

 

これだけの財産を、どうやって秀長が貯め込んだのか? いかに110万石の身代とはいえ、秀長がその石高になったのは、死の5年前ですし、大大名にはそれ相応の出費があるのが当たり前、ただ、倹約してましたというだけで、こんなにお金が貯まるわけはありません。

 

豊臣秀次

 

前述の熊野木材の事はさておき、秀次自身が自分のお金を元手に、堅実にあるいはリスキーに財テクに励んだと考えるのが自然ではないでしょうか?

 

豊臣秀長の言い分

豊臣秀吉の弟・豊臣秀長

 

豊臣秀長は、貯蓄が趣味でまた巧みでもありましたが、それは武士として当然の事でもありました。戦国の世であっても、すべてが暴力で済んだわけではなく、高い地位に就き、強い権力を持てば持つだけ、お金が必要であったのです。

 

ましてや、百姓から成り上がり、何の後ろ盾もない豊臣の成り立ちを考えれば、先祖伝来の忠義など、期待できないのは当たり前で、よりお金が必要になりました。

 

だからと言って、お金を奪ったり、借金を踏み倒せば、商人は逃げていき、二度と力を貸してはくれません。なので、秀長としてはお金を切らせるわけには行かなかったのです。秀長の貯蓄は豊臣政権の繁栄の為に、欠く事の出来ないものであり、私的に貯蓄が好きという事を上回る意味があったと考えます。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は、秀吉に比較して知名度が薄い、大和大納言、豊臣秀長を取り上げてみました。実際の秀吉は、天性の愛嬌で味方を増やすのは得意であるものの、その増やした味方を食わせる実務は不得意で、お金を集めてくる日陰の汚れ部分を担当したのが秀長であるとも言われています。

 

そう考えると、死後に多額の遺産を残した秀長がいかに財政手腕に長けていたか納得できますし、彼の死後、秀吉の繰り出す政策が精彩を欠いていく理由も分かるような気がしますね。

 

参考文献:お金の流れで知る戦国武将 マイウェイ出版

 

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麒麟がくる

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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