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豊臣秀長の莫大な遺産
万事に派手好きな兄、秀吉の為に、延々と金策をしていた豊臣秀長ですが、彼が51歳で死去した時、居城の大和郡山城には、金子が56000余枚、銀子は、二間四方の部屋満杯になるほど備蓄されていたそうです。
これだけの財産を、どうやって秀長が貯め込んだのか? いかに110万石の身代とはいえ、秀長がその石高になったのは、死の5年前ですし、大大名にはそれ相応の出費があるのが当たり前、ただ、倹約してましたというだけで、こんなにお金が貯まるわけはありません。
前述の熊野木材の事はさておき、秀次自身が自分のお金を元手に、堅実にあるいはリスキーに財テクに励んだと考えるのが自然ではないでしょうか?
豊臣秀長の言い分
豊臣秀長は、貯蓄が趣味でまた巧みでもありましたが、それは武士として当然の事でもありました。戦国の世であっても、すべてが暴力で済んだわけではなく、高い地位に就き、強い権力を持てば持つだけ、お金が必要であったのです。
ましてや、百姓から成り上がり、何の後ろ盾もない豊臣の成り立ちを考えれば、先祖伝来の忠義など、期待できないのは当たり前で、よりお金が必要になりました。
だからと言って、お金を奪ったり、借金を踏み倒せば、商人は逃げていき、二度と力を貸してはくれません。なので、秀長としてはお金を切らせるわけには行かなかったのです。秀長の貯蓄は豊臣政権の繁栄の為に、欠く事の出来ないものであり、私的に貯蓄が好きという事を上回る意味があったと考えます。
戦国時代ライターkawausoの独り言
今回は、秀吉に比較して知名度が薄い、大和大納言、豊臣秀長を取り上げてみました。実際の秀吉は、天性の愛嬌で味方を増やすのは得意であるものの、その増やした味方を食わせる実務は不得意で、お金を集めてくる日陰の汚れ部分を担当したのが秀長であるとも言われています。
そう考えると、死後に多額の遺産を残した秀長がいかに財政手腕に長けていたか納得できますし、彼の死後、秀吉の繰り出す政策が精彩を欠いていく理由も分かるような気がしますね。
参考文献:お金の流れで知る戦国武将 マイウェイ出版
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