どんな英雄豪傑も好きな女性の前では平凡な1人の男です。ましてや、一方的に相手に惚れてしまえば、どんな小細工も計略も役に立ちません。そこにあるのは、好きか嫌いか、何とも思わないかの三択、惚れた弱みのある男は、相手に振り向いて欲しい一心で頭と心が一杯になり、無力な存在になり果てるのです。
肥前の戦国大名、鍋島直茂にも家人に泥棒と間違えられ斬りつけられてまでゲットした恋女房がいました。初代鍋島藩主、鍋島勝茂の母でもある彦鶴姫です。
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天文10年(1541年)石井常延の次女として誕生
彦鶴姫は、天文10年(1541年)肥前国佐嘉郡飯盛城主石井兵部少輔常延の次女として誕生しました。成長した彦鶴姫は、龍蔵寺家の家老、納富信澄に嫁ぎますが、永禄9年(1556年)夫の信澄は戦死、彦鶴姫は一人娘を連れて石井家に戻ります。永禄12年(1569年)北九州の覇者、大友宗麟は大友氏の支配下から逃れて独立しようとする龍造寺隆信に対し、討伐命令を出します。
これにより、数万の大軍が肥前国に侵攻し、大友軍は佐賀城を取り巻いて持久戦を展開しました。一方、龍造寺軍は、時々城から出てゲリラ戦を展開、その兵士の中に親の再婚で龍造寺隆信の義理の弟になった鍋島信昌(直茂)もいたのです。
イワシを焼く彦鶴姫に直茂は一目ぼれ
肥前佐賀藩士、山本常朝が書き記した「葉隠」によると、その日、肥前日之江城主有馬晴純との合戦に勝利した龍造寺隆信は、鍋島直茂らと軍勢を従え龍造寺城に凱旋の途中石井家の居城、飯盛城に立ち寄り昼食を頼みます。
城主の石井常延は、侍女たちに命じて兵士たちにイワシを振る舞うように言いますが、その日の供の数は非常に多く、人数分のイワシがなかなか焼けません。
いつまで経ってもやってこない昼飯に腹を空かした兵士はイライラ「おい!いつまで待たせるんだ!」と怒鳴り声を上げる者も出る始末で、そうなると侍女達はますます焦り、狭い厨房で無理に大量のイワシを焼こうとして、増々イワシが焼けなくなりました。
それを見ていた彦鶴姫は「なんと手際の悪い事、どいていなさい」と侍女達を叱りつけると、みずから竈の火をかき出して庭先に広げ、炭火の上に直接イワシを並べ、大きなうちわで煽って火力を送り込んで大量のイワシを一気に焼き上げ、灰を落として皿に並べて出しました。
鍋島直茂は、この大量のイワシを一気に焼き上げる機転が利く彦鶴姫に一目ぼれしてしまいます。
(なんと賢く機転の利く女性であろうか、わしはあの方を妻にしたい)
当時の鍋島直茂は32歳、彦鶴姫は29歳、共にバツイチ子持ち同士でした。
足の裏を斬られても彦鶴姫に猛アタック
鍋島直茂は恋慕の炎断ちがたく、まるで青年ロミオのように、毎日、毎日、石井氏の屋敷に忍んで彦鶴姫に猛アタックを開始します。しかし、直茂は一目ぼれでも彦鶴姫はそうでもなかったのか、或る時、直茂は石井家の屋敷の者に盗人と間違われて足の裏を刀で斬られたそうです。足の裏を斬られるという事は、突然声を掛けられ、驚いてひっくり返りその時に足裏を斬られたのでしょう。
豊臣秀吉に天下を狙える逸材と評された直茂にしては、何とも情けないですが、好きな女の前では肥前の名将も平凡な1人の男だったのです。しかし、足の裏を斬られても熱心に通い続けた直茂の熱意に彦鶴姫も次第にほだされ、その年の内にゴールイン。龍造寺氏の譜代の重臣、石井家と鍋島家の縁組に主君の龍造寺隆信も上機嫌であったそうで、二人は当時の武家では珍しい恋愛結婚でした。
2人の結婚生活は49年にも及び、老年になっても直茂は彦鶴姫を「かか、かかぁ」と呼び、全ての事を夫婦で相談し、とても仲睦まじかったそうです。
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