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この記事の目次
エカントというご都合主義
エカントは説明が難しいのですが、当時の天動説の天文学者たちは、地球そのものではなく、その近くに太陽や惑星の運動の中心があると仮定して、これら天体の「一様な円運動」を実現しようと架空の中心軸を産み出し、それをエカントとしました。
エカントを惑星の円運動の中心とする事で、暦を作成する上で正確性が担保されます。さらに誤差が出ても、周転円や導円を適度にずらした模型を作成し修正すればOKでした。
これは、天動説派が地球を宇宙の中心とすると、一様な円運動が実現できないというジレンマに目を背けた妥協の産物でしたが、それでも暦を作成するのには十分であり、宇宙の中心が太陽だろうと地球だろうと、暦さえ正確なら構わない一般庶民に受け入れられます。
かくして天動説は、16世紀まで不動の権威として君臨し続ける事になりました。
大航海時代が天動説を揺るがす
融通自在な天動説は、長らく信じられてきましたが、やがて様々なほころびが明確になってきました。
特に羅針盤の伝来により、陸地を離れた航海が可能になると方位磁石と正確な星図が航海の命綱になりますが、当時の星表には問題がかなりあり、特に惑星の位置は数度単位で誤差が常にありました。惑星の位置が数度もズレると現在地が掴めず航海に不便が生じたのです。
また、もう1つの問題は当時使用されていたユリウス暦は、実際の1年間より僅かに長かったのですが、それが千年以上も積もり積もって、暦が10日以上もズレ、農業や祭事に大きな支障が生じていました。
しかし、当時信じられていたプトレマイオスの体系では、1年と言う数字は、ほかの天文学の数字からは独立していて計測に使えず、太陽の位置を数十年から数百年以上かけて測定する以外に1年の値を決定する方法がありませんでした。
コペルニクスの地動説
1800年も続いたプトレマイオスの天動説の支配に、わずかながら風穴を開けたのは、ポーランドの聖職者にして天文学者のコペルニクスでした。コペルニクスの地動説が特筆されるのは、単純に天動説の中心を地球から太陽に変換したアリスタルコスの地動説より進んで科学的に体系化された理論を持っていた事です。
コペルニクスの地動説では、1つの惑星の軌道が他の惑星の軌道を固定し、また地球を含む全惑星の公転半径と公転周期の値が互いに関連しています。各惑星の公転半径は地球の公転半径との比で決定され、同様に地球と各惑星の距離が算出できました。
これがプトレマイオスの天動説との大きな違いであり、各惑星の公転半径、公転周期は、全惑星の値が相互に関連しているため、どこかの値が少しでも変わると全体の体系がすべて変更される一体性を保持しています。
コペルニクスは1543年、地動説を盛り込んだ「天体の回転について」を刊行。同書で地動説の測定方法や計算方法をすべて記し、こうして誰でも同じ方法で1年の長さや、各惑星の公転半径を測定し直せるようにしました。
なぜか広まらない地動説
コペルニクスは聖職者だったので「天体の回転について」がプトレマイオスの天動説を否定し、宗教的論争を巻き起こす事を恐れ、生前は発行をためらい、死の寸前の刊行となりましたが、この「天体の回転について」は、当時かなり読まれはしたものの、ほとんど話題になりませんでした。その理由は、当時の人々がコペルニクスの地動説をほとんど信じなかったからです。
コペルニクスの地動説では、惑星は太陽を中心とする円軌道上を公転し、惑星は太陽から近い順に水星、金星、地球、火星、木星、土星の順で、公転周期の短い惑星ほど太陽から近くなっています。しかし、コペルニクスの説は単純な円軌道だけであり、複雑な惑星の動きを全て説明できませんでした。
本当の惑星軌道は楕円であり、これは引力によるものですが、コペルニクスは引力について発見するまでには到らなかったのです。
結局、コペルニクスの著書では、複雑な惑星軌道を説明する為に、従来の周転円や中心から外れた太陽が引き続き用いられ、プトレマイオスの学説と同様、5つの惑星の動きを完全に把握できるような計算方法を示す事が出来ませんでした。
また、コペルニクスは地球が自転しているのに、どうして鳥は自転から取り残されないのか?というような紀元前からの天動説派の疑問にも答えが出せませんでした。その為、コペルニクスは地動説を16世紀の世界に再認識させたものの、地動説が天動説より優れているという証拠を提示するのには失敗しています。
ただ、コペルニクスが地動説から導き出した地球が太陽の周りを1周する時間(1年)は1582年に採用されたグレゴリオ暦の1年の長さの基準として採用されました。
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