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この記事の目次
プトレマイオスの誤りを証明したケプラー
宗教論争を巻き起こすほど説得力をもたなかったコペルニクスの地動説ですが、惑星の位置を決定する為の表は、地動説モデルの方が簡単であり、天文学者に「便利な虚構」として用いられるようになります。
それまで、惑星の位置予報はプトレマイオスの学説を用いないと不可能でしたが、コペルニクスの地動説でも、それと同等の位置予報が出来る事が分かり、唯一絶対だった天動説は、揺らいでいく事になりました。
コペルニクスの地動説に弟子以外で最初に全面賛同を唱えたのが16世紀ドイツの天文学者、ヨハネス・ケプラーでした。ケプラーは、1599年デンマークの天文学者、ティコ・ブラーエに助手として招かれ、1601年のブラーエの死後には16年にもわたる観測資料の整理を委託されます。この整理の中でケプラーは、ブラーエが残した火星の軌道記録が、プトレマイオス以来の定説であった真円ではなく楕円である事に気づきました。
試しにケプラーが惑星の軌道を楕円と仮定すると、ブラーエの観測した結果をよく説明できる事が分かり、これを「ケプラー」の法則と名付けます。
さらにケプラーは1627年、法則を用いて星座の位置を特定する「ルドルフ星表」を作成しますが、これは当時主流だった「プロイセン星表」の30倍の精度を示し天文学者達を驚愕させ星表の主流の地位に就きます。こうして、せいぜい便利な虚構に過ぎなかった地動説は、天体の運行を有効に説明できる学説として天動説より優位に立つのです。
実験と天体望遠鏡で多くの発見をしたガリレオ
イタリアの天文学者、ガリレオ・ガリレイもケプラー同様に地動説を支持しました。ガリレオは実験によって、誰もが同じ条件下において同じ実検をすれば結果も同じになるという近代科学の手法を実践した1人です。
この実験を通してガリレオは、慣性の法則を発見します。こちらは有名な
「すべての物体は、外部から力を加えられない限り、静止している物体は静止状態を続け、運動している物体は等速直線運動を続ける」という運動の第1法則でした。
これにより、ガリレオは、アポロニウス、ヒッパルコス、プトレマイオス等の天動説論者が唱えた「なぜ空を飛んでいる鳥は地球の自転に取り残されないのか?」「なぜまっすぐ上に投げ上げた石は地球の自転に取り残されずに元の位置に落ちてくるのか」を合理的に説明する事が出来たのです。
さらにガリレオは望遠鏡を用いた天体観測により木星の衛星を発見し、「地球が動くならば、月は取り残されてしまう」という地動説への反論を封じ、金星の満ち欠けも観測します。これは地球と金星の距離が変化している事を示していました。
ガリレオは太陽黒点も観測、黒点の位置が動く事を確認し、太陽もまた自転している事実を証明します。これらは、地動説にとって全て有利な証拠となりました。
ガリレオ裁判の論点は地動説ではない?
ガリレオと言えば、地動説を唱えてカトリック教会に異端とされ、地動説を捨てるように迫られて、やむなく従い「それでも地球は回っている」と小さく呟いたとして、科学の真理に対する権力の弾圧のテンプレートとしてよく引き合いに出されます。
しかし、これは、19世紀に科学者により創作されたドラマであり、実際のガリレオ裁判は地動説ウンヌン以前に、ガリレオ個人と、その利害関係者による感情的な諍いが発端であると考えられています。
例えば、ガリレオが地動説を発表した著書「天文対話」は1632年にフィレンツェで刊行されましたが、この発行はローマ教皇庁の許可を受けてなされています。ところが、その事で、翌年ガリレオはローマ教皇庁の検邪聖省に出頭を命じられました。
理由はガリレオが、1616年の裁判で二度と地動説を口にしないと同意しておきながら、再び天文対話で地動説を発表した事に対する約束破りに対するものです。
ところが、ガリレオは、第1回裁判では地動説を捨てると誓ってないし、悔い改めてもいないとし、第1回の裁判の担当判事ベラルミーノの証明書を出して反論します。これに対し、検邪聖省はガリレオの署名がないガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論し、裁判では検邪聖省の証拠が通り、ガリレオは有罪になりました。
すでに、第1回の裁判の担当判事ベラルミーノは死去しており、ガリレオが地動説を捨てると本当に裁判で誓ったのかどうか?検邪聖省のでっち上げか真相はまだ闇です。
ガリレオは、収監されて拷問を受けたという話もありますが、事実ではなく、全ての役職を解かれて別荘のトスカーナに軟禁され、散歩以外の外出の禁止と著作の発行禁止を受けています。
冤罪の疑いが濃厚な理不尽な処置ではありますが、弟子を教え、仕事をする事は許され、最も重要な本「新科学論議」も執筆していますから、学者生命を絶たれたわけではないと言えます。
天文対話の反響の大きさで焦った教皇庁?
問題になった天文対話ですが、ガリレオによれば、第1回の判決を守り、地動説を絶対と書かないように注意深く執筆し、地動説を支持する者、天動説を支持する者、そして良識派市民の3者を登場させて対話させ、最終的には地動説を支持する者が勝つ形式を取りました。
ところが、論文ではなく対話形式という親しみやすさ、しかも知識人しか読めないラテン語ではなく、イタリア語で書かれた内容は一般庶民でも読め、地動説について大きな関心を呼びます。
そのため、「どうせ、難しくて庶民には読まれまい」と天文対話を軽く見ていた教皇庁があわてて、地動説を牽制するつもりで、ガリレオを裁判に掛けたのかも知れません。
しかし、教会の対応も不徹底であり、ガリレオの天文対話は禁書にしたものの、コペルニクスの「天体の回転について」は、一時閲覧禁止処分が取られたものの解除され、単に数学的な仮説であるという但し書きを入れた上で閲覧が許可されました。
教皇庁は、天体の運行についての聖書の解釈権を持ってはいましたが、さりとて地動説を原理的に禁じて、天文学を後退させようとまでは思っていなかったようです。ズルいというか現実的と言うか、これも宗教的、政治的妥協というものかも知れません
ニュートンの万有引力
ガリレオは慣性の法則によって、地球の自転により石や鳥が地球に取り残されない理由について合理的に説明しましたが、天体に関しては、慣性以外の法則が働いていると考え、ケプラーの「理由は不明だが観測上、惑星軌道は楕円を描く」という説も強く否定しています。
中世まで欧州では、
「人間も物体も動物も、それぞれの性質に応じて本来の位置があり、人間は家に帰り、鳥は巣に帰り、石のような無生物も本来の位置を持ち、小石を上に放り投げても出来るだけ早く地上に戻ろうとする」とアリストテレス以来の学説を信じていました。
しかし、延々と同じ円運動を繰り返す天体については、動物でも無生物でもない、霊的な存在と見て、地上の物体とは別とみなしています。ガリレオもこの考えに引きずられ、天体は真円運動をすると考え、ケプラー説を否定したのです。
ここで、登場したのがイギリスの天文学者、アイザック・ニュートンでした。ニュートンは、地上の引力が月などに対しても同様に働いている可能性に気づき慣性を定式化し、万有引力を発見する事に成功します。
そして、ニュートンは、それまで地動説の中心だった太陽でさえ、質量が大きく周囲の惑星を惹きつけている1個の天体に過ぎず、外側には、さらに広大な宇宙が広がっている事を示唆しました。
太陽を宇宙の中心としないニュートンの宇宙論は、惑星を動かすのはシンプルな科学法則のみで「神の意志など存在しない」とする無神論に繋がるとても刺激的な説でした。ゆえに、ニュートンの宇宙論は、近代の扉を開いたとも言われます。
ニュートンの宇宙論は次第に受け入れられ、宇宙は非常に大きな空間の広がりであり、恒星も遥か遠くから光を地球に届かせるため惑星よりも遥かに大きいと考えられるようになります。
これにより、どうして地球が動いても恒星の位置が動かないのかという視差の問題も、宇宙が広大である為という理由で説明できるようになりました。ただし、地動説の証明を確固たるものとするには、ジェームズ・ブラッドリーの光行差の発見、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ベッセルによる年周視差の観測の成功を待たねばなりません。
世界史ライターkawausoの独り言
ヴィルヘルム・ベッセルの年周視差とは、地球が公転している位置によって、恒星の見た目の位置がズレてみえるという事を証明したものでした。古代のアリスタルコスに至るまで、地動説の学者は、恒星は非常に大きく遠くにあるので、地球が公転していても、動いていないように見える可能性を示唆していました。
しかし、これは肉眼で検出するのは不可能なほどに小さく、もっとも地球に近い恒星であるケンタウルス座α星でも年周視差はわずか0.76秒しかありません。これは271m先にある物体を1mmずらしたときに発生する視差を検出することに等しく、発達した望遠鏡でなければ検出できない極くわずかな視差でした。
年周視差の大きさは地球からの天体の距離に反比例して小さくなるので、視差が分ると、その天体が地球からどれほど離れているかもわかるようになり、宇宙が太陽系だけではない無数の星と惑星の集まりである事が明らかになりました。
それらの諸々が証明されたのは、1838年であり、地動説が天動説を完全に駆逐してから、まだ200年経過していないのです。教科書では自明の説として扱われがちな地動説ですが、本当は長い長い苦闘の歴史があったんですね。
参考:Wikipedia
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