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この記事の目次
秀吉側室の妹の助命嘆願で助けられる
普通なら斬首さえ覚悟しないといけないと場面ですが、高次は幸運でした。その頃、母、京極マリアが産んだ妹の竜子が秀吉の寵愛を受けて側室になっており、兄、高次の助命嘆願を必死に秀吉に訴えたのです。
秀吉は、竜子の助命嘆願を聞き入れて高次を許し、天正12年(1584年)近江国高島郡に2500石を与え、さらに翌年には5000石に加増しました。その後の九州征伐には、京極高次も出陣し手柄を立て、領地を1万石に加増され大溝城を与えられて城持ち大名に出世します。
天正15年(1587年)高次は25歳で京極家の旧家臣、浅井長政の娘のお初を正室とします。ご存知の方も多いでしょうが、お初は浅井三姉妹の次女にあたる女性で、この時は秀吉の養女になっていました。さらに豊臣秀吉の側室は初の姉である淀殿であり、ここにも高次を引き立てようという秀吉の意図が感じられます。
京極高次は小田原征伐でも功があり、近江八幡山城28000石となり、翌々年、豊臣秀次が関白に就任すると従五位下侍従に任じられます。当時、秀吉の後継者と目されていた豊臣秀次の近臣になったという事は、高次が豊臣一門だと認識されているわけで、高次の出世はトントン拍子に進んでいきました。
京極ブランドと妻の七光りで出世する蛍大名
文禄4年(1595年)京極高次は近江大津城6万石に加増、従四位左近衛少将に任じられ、翌年には羽柴の苗字を許され豊臣姓を下賜されて従三位参議に叙爵されます。本能寺負け組からの急な出世は、世間の嫉妬の的になり、妹や妻の尻の威光で成りあがった蛍大名と陰口を叩かれました。
しかし、高次の出世は、妹や妻の閨閥だけでなく、鎌倉時代から近江を支配する京極氏の名門という威光もあります。成り上がり者である豊臣家は、浅井氏よりも家柄が古い京極高次を、戦略の要衝である北近江に置き反対勢力を牽制したい思惑があったのです。なんだかんだ言っても、400年以上も続く京極氏のブランドは、北近江を安定して治めるのに必要不可欠でした。
家康と三成から頼られ高次困っちゃう!
慶長3年(1598年)豊臣秀吉が死去すると、徳川家康と石田三成の対立が深まっていきます。もちろん、戦略の要衝の大津を抑える高次の周辺も忙しくなっていました。慶長5年(1600年)徳川家康は、会津の上杉景勝を討つべく大坂を発ちますが、翌々日の6月18日に大津城を訪れ、高次に留守中の事を頼んでいます。
高次はこれに応じ弟の京極高知と家臣の山田大炊を家康に伴わせます。つまりは人質です。
しかし、今度は石田三成が京極高次を誘い、氏家行広と朽木元綱から西軍に属する事を求められます。家康と三成からラブコールを送られた高次は、大津城の守りが弱い事から一度は西軍に与する事を決めて、大坂へ庶長子の熊麿を人質に送りました。
石田三成は、これで高次が西軍についたと考えて安心し、大津城を訪れ、色々と西軍の情報を告げました。ところが、老獪な高次は三成から得た西軍情報を東軍に伝えるなど風見鶏対応に終始します。
このような事から、東軍では早くから京極高次が東軍についている事が知られていましたが、西軍は高次が豊臣一門である事から、きっと西軍に付くと思い込んでおり高次が大津城に籠城を始めるまで裏切りに気づかなかったようです。
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