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この記事の目次
大津籠城戦のミラクル
9月1日、高次は西軍と共に大津城を発ち、2日には越前国の東野に至ります。しかし、ここから海津を経て船で大津城へ戻り、3日には城に兵を集めて兵糧を運び込み籠城し西軍を抑える旨を家康の重臣、井伊直政に伝えます。
高次の行動は即大坂に伝えられ、城近くの逢坂関にいた毛利元康軍が大津城へと攻め寄せました。さらに、ここに立花宗茂軍が加わり9月7日、西軍の寄せ手は最大で4万とも言われる大軍になり、城には大砲まで打ち込まれます。9月11日、家臣の山田大炊、赤尾伊豆守が奇襲を掛けて戦果を挙げるものの、12日には堀が埋められ、13日には西軍の総攻撃を受けました。
いよいよ高次自身も応戦、2カ所に矢傷を受け、三の丸、さらに二の丸が陥落、14日には和平の使者が送られますが、高次は降伏を拒否します。しかし、北政所からの使者や老臣黒田伊予の説得、高野山の木食応其の仲介を受け、夜になって降伏しました。
高次は一命を救われ高野山に入り出家する事になり、翌9月15日朝には、城に近い園城寺で髪を剃り、70人ほどの兵と共に宇治へ去り、その後高野山に入ります。
明らかに敗者モード全開の高次ですが、ここで奇跡が起きていました。高次が降伏した9月15日、関ケ原で大合戦が起り、西軍は僅か半日ほどの戦いで東軍に敗北していたのです。大津城を攻めていた毛利元康や立花宗成は、大津で足止めされた事で関ケ原に間に合わず、高次は期せずして西軍足止めの大役を果たしていました。
徳川家康により若狭小浜92000石の大名へ
高野山に入っていた京極高次は、徳川家康に下山するように度々促され山を下ります。大坂で徳川家康に会った高次は、若狭一国85000石への加増と転封を命じられて後瀬山城に入り、慶長5年(1600年)10月に小浜に入所、翌年には近江国高島郡のうち7100石が加増され92000石になりました。
その後、大坂の陣を控えた徳川家康の命により、高次は新たに日本海と北川と南川に囲まれた雲浜に、二条城に似た小浜城を築き、後瀬山の麓に残った城跡と武家の屋敷を町屋として街路を整備、小浜の城下町を整備しました。
しかし、大坂の陣を待つ事なく、京極高次は慶長14年(1609年)に47歳で死去します。本能寺の変に加担し、20歳で人生が摘んだと思いきや、妹、正室、京極の血筋のお陰で、時の権力者に好かれ出世をし、京極の家名を盛り返した不思議な生涯でした。
戦国時代ライターkawausoの独り言
京極高次は徳川家に絶大な信頼があり、それは高次死後も変わりませんでした。高次の正室のお初の姉は淀殿ですが、妹は江であり2代将軍徳川秀忠の継室だったのです。お初と高次の間には子供が出来ませんでしたが、お初は庶子の京極忠高に妹の江の4女、初姫を娶らせました。
もちろん、それは徳川秀忠の娘という事であり、将軍家と縁続きになった京極家は、2代藩主忠高の時代に、出雲と隠岐二か国、合計26万石に加増され石見銀山の管理も任されました。これは、西国の毛利氏に備えさせる意図があったという事で、外様としては破格の期待を受けていた事が分かります。
ただ、忠高は初姫と仲が悪く、初姫が臨終した時も、立ち会おうともせず相撲見物をしていたとかで、将軍家の心証を損ね、葬儀への参加を許されませんでした。
その後、忠高は後継ぎを決めずに死去し、藩は改易されかけますが、関ケ原の功績が考慮されて、甥に後を継がせる事で転封し存続します。しかし、以後は外様大名の扱いで、以前のように厚遇される事はなくなりました。
参考:Wikipedia
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