戦国時代の九州は九州三国志と呼ばれ、島津氏、大友氏、龍造寺氏がしのぎを削っていました。三国中、大友氏と島津氏は、鎌倉時代から九州に割拠した名門でしたが、龍造寺氏は名門少弐氏の一国人に過ぎませんでした。
この弱小、龍造寺氏を一代で九州三強にのし上げたのが肥前の熊、龍造寺隆信です。今回は、九州の風雲児、龍造寺隆信をご紹介します。
この記事の目次
怪力坊主だった少年時代
龍造寺隆信は、享禄2年(1529年)龍造寺家兼の孫、龍造寺周家の長男として肥前佐嘉郡水ケ江城に生まれます。7歳の時に出家し大叔父の豪覚が和尚を務める宝琳院の寺僧になり、中納言房、あるいは中将を称し法名を圓月としました。
圓月は、12、13歳で20歳くらいの知識があり、腕力も抜群であったと伝えられます。ある時、宝琳院の坊主が付近の領民と諍いを起こして院内に逃げ込み扉を閉じますが、ここに領民6~7人がやってきて扉をこじ開けようとしました。
圓月は、扉を1人で抑えていましたが、力が余って扉が外れ、領民4~5人が下敷きになり、領民は圓月の怪力に恐れをなして逃げていったそうです。
曾祖父の後を継いで水ケ江龍造寺の家督を継ぐ
圓月が15歳になった天文5年(1536年)大事件が起きます。圓月の祖父である龍造寺家純と父の周家が主君である少弐氏への謀反の嫌疑を受けて少弐氏の重臣、馬場頼周に誅殺されたのです。
曾祖父、龍造寺家兼はそれを知り、後難を恐れて圓月を連れ筑後国の蒲池氏の下へ逃げこみ、翌年、天文15年(1546年)蒲池鑑盛の援助で挙兵。見事に馬場頼周を討ち、水ケ江龍造寺氏を再興する事に成功します。
しかし、高齢の家兼は翌年には病を得、曾孫の圓月に龍造寺氏の未来を託して死去しました、なんと92歳の大往生です。かくして、圓月は還俗して龍造寺胤信と名乗り家督を相続する事になります。
その後、龍造寺隆信は、龍造寺本家の龍造寺胤栄に従い、天文16年(1547年)主筋にあたる少弐冬尚を攻め、勢福寺城から追放。翌年、胤栄が亡くなった為、隆信はその未亡人を娶り、龍造寺本家の家督も継承しました。
しかし、強引な乗っ取りに不満を持つ家臣も少なくなかったので、隆信は不満を抑えるべく西国一の大名、大内義隆と手を結び、その一字を拝領して隆胤と改名、さらに改名して隆信と名乗り、天文19年(1550年)には、山城守に任官を受けます。
こうして、家臣の不満を抑え込んだ隆信は名実ともに龍造寺氏の当主となりました。
母の活躍で鍋島直茂を義弟とする
天文19年、龍造寺家純の娘にあたる鍋島清房の正室が死去しました。
この清房の息子には、名将として評判の鍋島信生(直茂)がいて、隆信の母の慶誾尼は、鍋島清房と直茂は龍造寺家に欠かす事が出来ない逸材になると考え、清房に押し掛ける形で後妻になり、龍造寺隆信と鍋島直茂は義理の兄弟となります。
龍造寺隆信と鍋島直茂は、とてもウマが合い、この後、直茂は龍造寺氏の繁栄にはなくてはならない活躍をします。2人を結び付けた隆信の生母、慶誾尼は女傑で、評定の時にも隆信の側に控えて、多くの助言を与えたそうです。
大内義隆の死で一時肥前を追われるが再起
天文20年(1551年)龍造寺隆信の後ろ盾だった大内義隆が陶隆房の謀反により殺害されます。これにより、隆信の威信が揺らいだ隙を突き、家臣の土橋栄益が近隣の大名、大友氏の支援を受けて龍造寺鑑兼を当主にすべく蜂起。隆信は、成す術なく築後に逃れ、再び蒲池鑑盛の下に身を寄せます。
天文22年(1553年)蒲池氏の援助を受けた隆信は挙兵して土橋氏に勝利し、肥前の奪還を果たし土橋栄益を捕え処刑しました。ただ、担がれた龍造寺鑑兼は隆信の正室の兄であったので罪を許し、佐嘉郡に所領を与えて懐柔しています。
こうして反対勢力を駆逐した龍造寺隆信は勢力拡大に乗り出し、永禄2年(1559年)には戦国大名としての少弐氏を滅ぼし、永禄3年(1560年)には千葉胤頼、永禄4年(1561年)には、川上峡合合戦で神代勝利を破り、永禄5年(1562年)までに東肥前の支配権を確立しました。
大友氏との熾烈な戦い
龍造寺氏の急速な勢力拡大に、近隣の有馬氏や大村氏は危機意識を抱き、永禄6年(1563年)には連合して東肥前に侵攻します。これに対し、隆信は豪族の千葉胤連と同盟を結び丹坂峠の戦いで有馬・大村連合軍を撃破しました。
しかし、これにより龍造寺氏の影響力が南肥前にまで及ぶようになった事から、豊後の大名、大友宗麟が隆信を危険視します。勝てば勝ったで敵が増え、負ければ負けたで滅亡の危機、新興勢力は大変です。
大友宗麟は、少弐氏の生き残りの少弐政興を支援、これに少弐氏の旧臣の馬場氏や横岳
永禄12年(1569年)ついに大友宗麟自ら大軍を率いて肥前に進撃してきますが、この時、毛利元就が豊前国に侵攻したので、宗麟は、やむなく引き返していきます。
元亀元年(1570年)宗麟は毛利氏を撃退すると、反龍造寺派の国衆を支援して筑後高良山に陣を敷きます。大友軍は6万人、それに対し龍造寺軍は僅かに5000人でした。
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