こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
今山合戦で逆転勝利
11倍の兵力を持つ大友氏に対し、龍造寺氏は佐嘉城に籠城し筑後川を利用して補給を維持し有利に戦います。
これに業を煮やした大友宗麟は、弟の大友親貞を総大将に任じて、龍造寺氏が立て籠もる佐嘉城の北西の今山に布陣し、東に一門、譜代、外様の大村氏、有馬氏を動員して完全に佐嘉城を包囲しました。
大友親貞は、8月20日を総攻撃の日とし城に籠る龍造寺氏に重圧を掛けます。一転して窮地に陥る龍造寺隆信ですが、そこで間諜が重大な情報をもたらしました。それは、総攻撃前夜の8月19日、今山で大宴会が開かれるというものです。
これを聞いた鍋島直茂は、手勢800を率いて奇襲を掛ける事を隆信に直訴しました。しかし、もしかすると宴会自体が敵の流言かも知れず、流言でなくても、800名と言う少数での奇襲は危険が大きすぎると、隆信も重臣も首を縦に振りません。
ここで、隆信の生母の慶誾尼が弱気な隆信を叱咤します。
「このまま、籠城しても勝てる見込みは万にひとつもあるまい。我らが死ぬか敵が死ぬか、こたびの奇襲に生死をかけなされ!」
生母の叱咤に己の弱気を恥じた隆信は、座して死を待つよりはと直茂の奇襲を許可します。果たして、これが大成功、夜を徹した酒宴で酔いつぶれた大友連合軍は死を決意した直茂の800人に手も足も出ず、名だたる重臣が討ち取られ、総大将の大友親貞まで首を獲られます。
一晩で2000人もの兵員を失った大友宗麟は意気消沈し、陣を維持する事が出来ずに、龍造寺隆信と和睦。龍造寺の領地を安堵すると認めて退却しました。重臣、鍋島直茂の活躍で、龍造寺隆信は生涯最大の危機を切り抜け、さらに領土拡大に突き進んでいくのです。
大友宗麟の機嫌を取りつつ肥前を平定
しかし、大大名の大友氏と、やっと肥前を1/4手中に収めただけの龍造寺氏では対等ではありませんでした。そこで龍造寺隆信は、あえて大友宗麟に従属し、息子の政家が大友宗麟(義鎮)から偏諱を受けて鎮賢と名乗るなど下手に出ます。
その一方で、隆信は少弐政興を肥前から追放し、天正元年(1573年)には西肥前を平定。天正3年(1575年)には東肥前を平定。そして、南肥前の大村純忠、有馬鎮純を次々と下して天正6年(1578年)には肥前の統一を成し遂げました。
この間、大友宗麟からは周辺国を攻めないよう詰問の使者が繰り返し出されますが、隆信は巧妙に言い訳しつつ既得権益を認めさせ、いよいよ大友氏に対抗できるだけの勢力を蓄えます。
大友氏の弱体化に乗じて五カ国太守となる
天正6年(1578年)大友宗麟が耳川の戦いで島津義久に大敗し急速に求心力を失います。隆信は混乱に乗じて大友氏の領地を奪い取り、大友氏からの自立を果たしました。
そして、それまで対等だった国衆を従属させて部下とし、戦国大名化していき、天正8年(1580年)までに筑前、築後、肥後、豊前を支配下に置くなど急速に勢力を伸ばします。
天正8年(1580年)隆信は家督を嫡男の政家に譲り隠居しますが、依然として政治の実権は握り続けます。しかし、隠居した後の隆信は、猜疑心が強くなり、何度も窮地を救われ恩がある蒲池鎮漣を島津氏と通じた事を理由に謀殺し、その一族まで皆殺しにしました。
また、天正11年(1583年)には、赤星統家が隆信の命令に背いた事を理由に人質として預かった赤星の息子と娘を見せしめに殺害します。このような残酷な行動から隆信は重臣の一部からも冷酷な印象を持たれるようになりました。隆信はこの頃、自身を五州二島の太守と称しましたが、世間では冷酷な隆信の性格から、肥前の熊と呼ぶようになったそうです。
沖田畷での無念の最期
天正12年(1584年)3月、有馬晴信が龍造寺氏から離反します。晴信の親戚である安富純治、純泰父子は依然として龍造寺方でしたが、有馬晴信は深江城を攻めて島津氏がこれに加勢します。
隆信はこれを受けて、有馬を討つべく兵を差し向けますが、有馬攻めは遅々として進まず、隆信は自ら25000の大軍を率いて島津・有馬連合軍との対決を決意しました。
鍋島直茂は、島津を警戒して持久戦に持ち込む事を提案しますが、兵数の多い隆信は慢心して短期決戦に固執し、耳を貸さなかったと言われています。龍造寺軍25000に対し、島津は1万未満と半分以下でしたが、龍造寺軍を巧妙に誘導し、沖田畷という狭い湿地の細道へと誘い込みます。
こうして、畷の出口で島津軍が鉄砲と弓を乱射すると、龍造寺軍は狭い一本道で退く事も進む事も出来ず混乱状態に陥り、島津家久と有馬晴信軍に挟撃されて崩壊に追い込まれました。
龍造寺隆信は、その頃、ひどく肥満していて馬にも乗れず、6人が担ぐ輿に乗り、葦原に隠れていましたが、それを島津氏の家臣、万膳仲兵衛尉弘賀が発見。
伝令になりすまして近づくと、6人の担ぎ手を次々に斬殺。輿から転げ落ちた隆信は地面をはいずり回り、南無阿弥陀仏と唱えている所を首を落とされて最期を迎えます。56歳でした。
沖田畷の敗戦で、龍造寺氏は優秀な武将を多く失い、当主の龍造寺政家は、生き残った重臣の鍋島直茂を重用していき、次第に実権を直茂に奪われていく事になります。
龍造寺隆信年表
・享禄2年(1529年)龍造寺家兼の孫、龍造寺周家の長男として肥前佐嘉郡水ケ江城に生まれる。
・天文5年(1536年)7歳で出家し宝琳院の大叔父豪覚和尚に預けられ法名を圓月と名乗る。
・天文14年(1545年)祖父、龍造寺家純と父の龍造寺周家が主君少弐氏への謀反の疑いをかけられ馬場頼周に誅殺。曾祖父の家兼は圓月を引き連れて築後の蒲池氏の下へ脱出。
・天文15年(1546年)龍造寺家兼、蒲池鑑盛の援助で挙兵し馬場頼周を討ち、水ケ江龍造寺氏を再興。
・天文16年(1547年)曾祖父、龍造寺家兼、老衰と病気で死去、遺言を受けて水ケ江龍造寺氏の家督を継ぎ龍造寺胤信を名乗る。
・天文17年(1548年)龍造寺本家の龍造寺胤栄と共に少弐冬尚を攻め、勢福寺城から追放。
・天文18年(1549年)胤栄が死去、龍造寺胤信、胤栄の未亡人を娶り龍造寺本家の家督を継承。
・天文19年(1550年)大内義隆と手を結び、家督継承に不満を持つ家臣を抑える。名前を隆胤、隆信と改める。
・天文19年(1550年)祖父、家純の娘である重臣鍋島清房の正室が死去。隆信の母、慶誾尼が清房と再婚し清房の息子、鍋島直茂が義弟となる。
・天文20年(1551年)大内義隆が陶隆房の謀反で討たれ、後ろ盾を失った隆信は土橋栄鑑に追われ築後柳川の蒲池鑑盛の元に逃げる。
・天文22年(1553年)蒲池氏の援助を受けて土橋氏を破り、龍造寺の当主に返り咲く
・永禄2年(1559年)勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込み、戦国大名としての少弐氏を滅ぼす。
・永禄3年(1560年)千葉胤頼、少弐氏家臣、馬場氏、横岳氏を下す。
・永禄4年(1561年)川上峡合戦で神代勝利を破る。
・永禄5年(1562年)東肥前の支配権を確立。
・永禄6年(1563年)有馬氏・大村氏連合軍を千葉胤連と結んで丹坂峠の戦いで破り、南肥前に影響力を拡大
・元亀元年(1570年)豊後の大名、大友宗麟が6万の大軍で肥前に攻め寄せる。
重臣鍋島直茂が僅か800で奇襲を掛けて撃退に成功。その後、大友宗麟と和睦し大友氏傘下に入る。
・元亀3年(1572年)少弐政興を肥前から追放。
・天正元年(1573年)西肥前を平定。
・天正3年(1575年)東肥前を平定。
・天正4年(1576年)南肥前に侵攻し、翌年には大村純忠を下す。
・天正6年(1578年)有馬鎮純を下し、肥前統一を完成。
・天正6年(1578年)大友宗麟が耳川の戦いで島津義久に大敗すると大友氏の領国に侵攻し大友氏の支配から独立。
・天正8年(1580年)筑前、築後、肥後、豊前などを勢力下に置く。この頃、隠居するが、実権は握り続ける。
・天正9年(1581年)肥後に侵攻。
・天正11年(1583年)龍造寺氏と島津氏との間に小競り合いが起きる。
・天正12年(1584年)秋月種実の仲裁で和解。
・天正12年(1584年)沖田畷の戦いで島津・有馬連合軍に大敗し首を討たれる。享年56歳
戦国時代ライターkawausoの独り言
強いけど、粗暴で冷酷な印象がある龍造寺隆信。
しかし、その人生を見てみると少なくとも隠居するまでは、苛烈な粛清などはなく、敵に担がれた妻の兄の龍造寺鑑兼を許して領地を与えて懐柔したり、大友宗麟には、下手に出て強かに国力を貯えるなど、硬軟織り交ぜた計略が出来る人物のようです。
ただ、隠居したからおかしくなったのかというと、そうとも言えず、叛かれるよりは、冤罪が多少あろうと未然に反乱の芽を摘んでおこうと、敵が多い龍造寺氏の将来の為に隆信なりに最善と思える行動をしていたに過ぎないのでしょう。
こう言うと元も子もないですが、死に際がマズかった事と、後に龍造寺氏が鍋島氏に乗っ取られた事で、特に悪い面がクローズアップされているような気がします。今川義元にも言えますが、少数の敵に攻め込まれて首を切られると、なかなか高評価で終るのは厳しいかも知れませんね。
参考文献:歴史人 戦国史を地図で読み解く 戦国武将の国盗り変遷マップ その他
関連記事:鍋島直茂と彦鶴姫バツイチ同士の馴れ初めはなんとイワシだった?
関連記事:戦国日本は多神教でキリスト教は相容れないは嘘だった?