千年の都京都、教科書的には応仁の乱で焼け落ちるものの、たくましい京都人の努力で室町時代より一層力強く復興、繁栄したと語られがちです。
それは、確かに間違ってはいませんが、本格的な京都の復興は秀吉の時代を待たねばならず、それ以前の戦国京都は、城塞に取り囲まれた治安最悪なリアルバッドシティでした。
応仁の乱後も治安最悪の京都
応仁の乱後の京都の範囲
応仁の乱は応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)11年続いて終結します。その間、戦乱を避ける為に、貴族や武士階級は上京に環濠を掘り、櫓を組んで自衛し、下京では商人や庶民階層が、やはり環濠を掘って東軍・西軍の果てしない睨み合いに耐えました。
しかし、応仁の乱がやっと終わって、これから復興だと思いきや、京都の治安は戻りませんでした。理由は、京都が荒廃し室町幕府の力が衰え、侍所や所司代のような、警察組織も消滅していたからです。
東軍と西軍が、京都を引っ掻き回して引き上げた後、そこには武装したヒャッハーな犯罪者集団が残りました。何しろ、犯罪を犯しても捕まえにくる存在がないのですから、応仁の乱後の京都は犯罪者の天国でした。
いきなり矢を撃ち合う無法地帯上京
当時の京都が、いかにyourShock!だったかを物語る記録があります。甘露寺親長という公家の日記なのですが、ちょっと引用してみましょう。
上京の一条烏丸の北東の角にある土倉(金融業者)へ強盗団が押し入った。
周辺の町人たちが出てきて、強盗団と矢を撃ち合う激戦となり、土倉一家も戦闘に加わったが、夫婦は殺され、子供も負傷した。強盗団は火を放ち運悪く強風にも煽られ、一条大路に面した一帯が焼けてしまった。
(以下略)
文明16年(1484年)6月2日条 親長卿記
強盗団は武装し、矢を放ちながら土倉に押し入り、それに対し周辺の町人も矢を放ち応戦、そして、土倉夫婦は射殺され、子供まで負傷しています。
断っておきますが、これは応仁の乱の最中ではなく、乱が終わってから7年が経過した後です。
そして、極め付きには一条烏丸は、天皇の御所の付近でした。この時代の京都は、天皇といえど、一歩間違えば…という事があった、リアル北斗の拳のバッドシティでした。
一度埋めた総構が再度復活
上京と下京の問題は、強盗ばかりではありません。応仁の乱の終結後に、京都は何度も大火に見舞われています。これらは概ね、強盗による放火でした。
その放火方法も、捕まえたネズミの尻尾に火をつけて民家に放つという悪質かつ病的なもので、折角、復興した上京も下京も、度々大火で焼き払われて、京都は元の灰燼に帰してしまいます。このように、上京や下京の人々は、放火に怯え恐怖で夜も眠れない状態に追い詰められて言ったのです。
明応8年(1499年)当時の幕府の最高権力者であった管領、細川政元は、応仁の乱の終結後に一度は埋めてしまった総構を復活させる事を決定しました。
形式上は、追放した将軍、足利義材の京都奪還に対応する為でしたが、実質的には、盗賊団や放火犯が街中に入り込まないように、再度城塞化したのです。応仁の乱が終わったにも関わらず、京都は、治安の悪さの為に総構を復活させる程、酷い状況に陥っていました。
はてしなく荒廃する京都
こうして、上京と下京が城塞化すると、その周辺に僅かに残っていた民家も、盗賊の襲撃を恐れて放棄されどんどん荒廃していきました。かくして、豊臣秀吉が京都の再興をするまで、京都とは、上京と下京の城塞都市を意味し、後は原野か畑だけという状態になります。
15万を超えていた人口も民家10軒に1軒も戻らずという激減状態でした。まさしくお先真っ暗な京都ですが、皮肉にもこの追い詰められた状況下で上京と下京の人々は、団結して乱世に立ち向かおうと思考錯誤を開始しました。
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