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この記事の目次
関白独占崩壊に慌てる五摂家
驚愕したのは五摂家です。成り上がり者の猿が飽きるまで、関白職を貸してやろうと上から目線で見ていたら、秀吉は天皇の皇子を猶子にして関白を世襲にしようとしているのです。平安時代以来、五摂家に握られた関白が、あっという間に秀吉に奪い取られ右往左往。しかも、秀吉の後継ぎが天皇の皇子となっては文句も付けられません。
幸いにして、この頃、秀吉には長男の鶴松が生まれたので、胡佐丸を猶子にする話は立ち消えになりますが、今度は鶴松を関白にしようとするのは確実です。ところが、鶴松は夭折して関白にはなれませんでした。
近衛信輔、薩摩に左遷
五摂家の失望と恨みは、最初にゴネた近衛信輔に向けられます。
(お前さえ、潔く左大臣を引いておれば、こんな事にはならなかったんじゃい!)
平安時代以来、独占し続けた関白を秀吉に奪われた事で信輔も心を病み、文禄元年(1592年)左大臣を辞任しました。傷心の信輔ですが、幼少時から父の前久と共に日本各地を移動していたので、公家よりも武家に憧れがあり、色々あって投げやりになったのか、左大臣辞任後、秀吉の朝鮮出兵に応じて渡海しようとしています。
後陽成天皇は、奔放な信輔を危惧し秀吉に勅書を出して信輔の渡海を禁じ、その後も、信輔には問題発言があったせいで、秀吉の逆鱗に触れ薩摩に左遷されました。ただ、信輔は慶長元年(1596年)には秀吉に許され京都に戻り、慶長10年(1605年)には念願の関白になっています。
秀吉のワガママで右大臣も左大臣も関白もいない事態に
さて、近衛信輔が左大臣を辞任すると、文禄3年(1594年)秀吉は甥の豊臣秀次を左大臣に就任させます。しかし、秀吉に秀頼が誕生した事で、秀次の立場が微妙になり、翌年には秀次が謀反を疑われて切腹、さらに秀次の義父だった右大臣の菊亭晴季も連座して流罪になります。
こうして、朝廷には、関白も左大臣も右大臣もいない事態が発生し、宮中行事にも支障を来しますが、秀吉は内大臣に徳川家康を置いただけで、秀頼が成長するまで関白も右大臣も左大臣も任命しませんでした。
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