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この記事の目次
秀吉没後、九条兼孝が関白に返り咲く
慶長3年(1598年)豊臣秀吉が死去すると、徳川家康は流罪にした菊亭晴季を呼び戻し右大臣に再任。そして豊臣秀頼を内大臣にしますが、まだ年少である事を理由に、関白には九条兼孝を就任させました。
以後、秀頼は関白に就任する事なく、大坂夏の陣で豊臣氏は滅び、関白の地位は再び五摂家の独占する地位に戻ったのです。秀吉流の公武合体はこうして夢のまた夢と消えました。
戦国時代ライターkawausoの独り言
豊臣秀吉は、支配下の戦国大名に朝廷の官位を与えるだけでなく序列付けを行い、朝廷の秩序の中に武家を組み込もうとしています。そうして、太政大臣の豊臣家が朝廷と武家を同時に支配できるように考えていたようです。欲張りな秀吉らしい発想ですね。
参考文献:お金の流れで知る戦国武将 マイウェイ出版
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