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上杉謙信女性説はどうやって生まれたのか?根拠や不思議な噂の真相

2020年12月13日


 

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リトルグレイ(宇宙人)と遭遇して興奮する曹操

 

人間は、新発見とか大発見、新説!みたいな煽り文句に弱いものです。特に、世間はダマされているが真相はこうです!みたいな都市伝説が大好きという人も多く、だからこそ、都市伝説系の動画は数が増えていくのです。

 

上杉謙信(女性版)

 

今回は、そんな中から、上杉謙信(うえすぎけんしん)は女だったという都市伝説を検証してみます。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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越後の龍 上杉謙信とは?

上杉謙信

 

上杉謙信は、越後(えちご)、現在の新潟県に生まれた戦国大名で、合戦においては70戦、43勝、2敗、25分という驚異的な勝率を誇り、武田信玄、上杉謙信、織田信長のような強豪大名と五分五分以上の勝負をし、越後の軍神とも呼ばれました。

 

上杉謙信が信仰した毘沙門天(神話)

 

一方で深く毘沙門天(びしゃもんてん)信仰に帰依した謙信は、不義の戦を許さず、利益よりも道義を優先して戦い、その因縁から武田信玄とは五回に渡る川中島の戦いを経験しています。

武田信玄-vs-上杉謙信

 

道義を追求した為に、個人的には何の得にもならない、しなくてよい苦労をし天下を取り逃がしたとさえ言われる謙信ですが、一本気で純粋な性格には、同時代の敵の戦国大名からでさえ尊敬を集め、魅了される戦国ファンも多いようです。

 

そんな男くさい謙信が、実は女性だった!と言われれば誰だって驚きますよね?

 

突如出現した上杉謙信女性説

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上杉謙信が女性だったという説は、大昔から存在していたわけではなく、昭和43年の読売新聞夕刊で連載を開始した、八切止夫(やぎりとめお)の「上杉謙信は男か女か」から始まりました。

 

つまり、上杉謙信女性説は、誕生してから52年しか経過していない歴史としては新しい説なのです。

 

その最初の始まりはwikipediaによるとこんな感じです。

 

歴史小説家である八切止夫は、スペイン内戦時には城砦(じょうさい)として使用されていたトレドの修道院から15世紀から16世紀の舟乗りや宣教師による日本についての報告書を発見する。その中には、ゴンザレスという船乗りが国王に提出した1571年から1580年にかけての佐渡金山に関する報告書があった。

 

報告書の中の黄金情報という閉じ込みには、

「アイドのウエスゲはそのTIA(ティア)の開発したサドの純金を沢山もっている」

意訳:会津の上杉はその叔母(tia(ティア))が佐渡を開発して得た黄金をたくさん持っている

 

上杉景勝の母である仙桃院(せんとういん)の兄弟は弟の上杉謙信しかいないので、八切止夫は、叔母とは謙信の事であると考え、上杉謙信女性説を唱えた。

 

…序盤からして、こんな感じなのですが、個人的に言わせてもらうと、その文書が本当に存在するなら、ゴンザレスという船乗りが、叔父と叔母を書き間違えただけじゃないですかね?

 

だってスペイン語では、叔父はTío(ティオ)で叔母がtía(ティア)ですから、書き間違い、或いは読み間違いはあり得そうですけど…もちろん、八切止夫は、これだけでは根拠が弱いと考えて、さらに上杉謙信女性説を補強するような証拠を出していきます。

 

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上杉謙信女性説の根拠

 

読売新聞の夕刊連載、「上杉謙信は男か女か」で八切止夫が挙げた、上杉謙信女性説の証拠には以下のようなものがあります。

 

①越後の民謡、瞽女唄(ごぜうた)に上杉謙信を男も及ばぬ怪力無双と歌ったものがある。

②上杉謙信の死因が大虫(おおむし)と記録されるが大虫は婦人病の事である。

 

それ以外にも、上杉謙信の女性説には、

 

③毎月10日前後に生理痛らしき腹痛を起こし、陣を引き払い部屋に籠っていた

④手紙の文字が女性的で、読書も源氏物語や伊勢物語を好んで読んだ

⑤信長が謙信に源氏物語絵巻の屏風を贈ったが、屏風は普通男性が女性に送るモノ

⑥正室も側室も置かず生涯独身を貫いた

 

等々があります。

では、次では、これら6つの上杉謙信女性説をバッサリ切ってみせましょう。

 

上杉謙信女性説を切る!①

 

では、①の越後の民謡、瞽女唄に上杉謙信を男も及ばぬ怪力無双と歌ったものがあるから、検証してみましょう。

 

こちらの瞽女唄の歌詞は、「寅の日に 生まれたまいし 政虎(まんとら)さまは 男も及ばぬ大力無双(たいりきむそう)」と唄われたと八切止夫は書いていますが、現在、その瞽女唄は確認されていません。

 

また、瞽女とは盲目の女性たちで三味線を弾いて家々を回り、報酬を受けて生計を立てている芸能者ですが、もし、この瞽女唄が、400年前から歌われ続けているなら、上杉謙信は女性という説は、もっと早い段階から、少なくとも越後では流布されていた筈で、八切止夫が紹介するまで知られていないというのは、妙な話だと思います。

 

上杉謙信女性説を切る!②

亡くなる上杉謙信

 

上杉謙信の死因が大虫、つまり、当時の言葉で生理、転じて婦人病であるとの事ですが、そもそも更年期障害が原因で人が死ぬという事はまずありません。

 

また、養子である上杉景勝は、養父の死因について不慮の虫気と書いていますが、これは寄生虫の事を意味しているそうです。当時は衛生面が未発達なので、寄生虫がお腹にいる事は珍しくなく、謙信も度々、腹痛を起こしており、虫気が悪化して死んだのだと当時は考えられていたのでしょう。

 

それに戦国時代当時は、生理の事をおむしと言ったそうで、これはお蒸すから来ているそうですが、八切止夫は、これを大虫に無理やり当てはめただけとも考えられます。

 

上杉謙信女性説を切る!③

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

次に③毎月10日前後に生理痛らしき腹痛を起こし、陣を引き払い部屋に籠っていたですが、実際に謙信が、毎月10日前後に腹痛を起こしていた事は記録にあるようです。ただ、これが生理痛であるかどうかは分かりません。当時から腹痛からの下痢(げり)に苦しむ戦国武将は多くいたからです。

 

6時間で決着がついた関ヶ原の戦い(石田三成)

 

石田三成(いしだ みつなり
)
も、現在で言う過敏性腸症候群(かびんせいちょうしょうこうぐん)に苦しみ、関ケ原の戦いでも下痢によって采配が取れなかったという説もあります。上杉謙信も合戦の重圧で定期的に腹痛を起こした可能性だってあります。

 

また、今のように生理用品が存在しない戦国時代に、女性が不衛生な戦場で長時間馬に乗り、ろくろく風呂にも入れず、強行軍に耐えて健康を保てたかは少し疑問が残る所です。

 

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上杉謙信女性説を切る!④

西遊記巻物 書物_書類

 

④の、手紙の文字が女性的で、読書も源氏物語や伊勢物語を好んで読んだ。ですが、源氏物語や伊勢物語を愛読していたのは、上杉謙信ばかりではなく、当時の教養ある武将はいずれもたしなんでいました。

 

その理由は連歌会に参加する時に源氏物語や伊勢物語がテーマになる事があったからです。そんな会に招かれ、源氏物語はよまないと言ったところで、無教養で粗野な武士とバカにされるだけでした。

 

傾奇者だけどエリートな前田慶次(前田利益)

 

あの天下一の傾奇者、前田慶次こと前田利益も、源氏物語、伊勢物語を愛読する教養人で、京都では、細川藤孝が主宰する茶会の常連でした。この辺を見ても源氏物語や伊勢物語を読むから女性的とは言えない事が分かります。

 

また、文字が女性的というのは、柔和で優美な字を書いたというだけであり、これまた女性であるという根拠にはなりません。

 

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上杉謙信女性説を切る!⑤

安土城 織田信長が作らせた城

 

⑤の信長が謙信に源氏物語絵巻の屏風(びょうぶ)を贈ったが、屏風は普通男性が女性に送るモノという根拠ですが、これについては、男性から女性に屏風を贈るという風習が見つけられません。

 

しかし、屏風は戦国時代に贈答品として重宝され、信長から謙信に贈られただけでなく、織田信長も安土城の屏風を、イエズス会の宣教師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノに贈っています。では、織田信長は女性なの?という話になりますけどもちろん違います。

 

推測するに源氏物語は恋愛モノだから、そんな屏風を贈るのは男性とは思えない。だから、謙信は女性と言いたいのでしょうが、戦国時代には源氏物語も伊勢物語も教養になっており、現在の少女漫画のような感覚ではありません。

 

だから、源氏物語屏風でも、それを男女どちらに贈るにしても問題はないのです。

 

上杉謙信女性説を切る!⑥

上杉謙信

 

⑥の正室も側室も置かず生涯独身を貫いたですが、これには別の理由が考えられます。

 

実は、上杉謙信には長尾晴景(ながおはるかげ)という兄がいて家督(かとく)を継いでいたのですが、乱世には向かない人であり、長尾家を取りまとめる力がありませんでした。そこで群臣で協議して晴景には隠居してもらい、代わりに上杉謙信が家督を継ぎました。

 

この事から、謙信には兄への負い目があり、自分は中継ぎであり、ゆくゆくは家督を返したいという気持ちから結婚せず独身を貫いたというわけです。しかし、皮肉にも謙信が実子を儲けず、上杉景勝と上杉景虎の2人の養子を取って急死した事が、お家騒動、お舘の乱を引き起こす事になりました。

 

それ以外にも、仏門に入った謙信は煩悩の元になると女性を遠ざけていたとも、同性愛者であったとも、性的不能であったとも生涯独身には色々の理由が挙げられます。

 

こうしてみると、女性だから結婚しなかったというのは、根拠が弱い話であり、それ以外にも謙信が独身を貫いた理由は挙げられるのです。

 

まとめ

君主論18 kawausoさん

 

以上、上杉謙信女性説をまとめて切ってみました。ちなみに最初のゴンザレス文書ですが、現在の所、実在が確認できていないようです。あくまでも現時点での話ですが、上杉謙信女性説は100%否定はできないが、およそ史実とは考えられないというレベルの話ですね。

 

参考:Wikipedia

 

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上杉謙信特集

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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