戦国時代に軍師がいた!合戦のエキスパート軍師と軍配者はどう違う?


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戦国時代の軍師(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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合戦後

落ち武者

 

こうして合戦に勝利すると、軍配者には戦死者の慰霊の仕事が残っていました。最初に作法に乗っ取り勝鬨(かちどき)を上げ、その後、首実検をしてから首に化粧を施し細かい作法にのっとり供養をします。これも、戦死者の怨霊を恐れる兵士たちの動揺を鎮め、心置きなく次の戦いに臨めるようにしていたのです。

 

軍配者が廃れた理由

名古屋城

 

しかし、軍配者の活躍の場は次第に合戦から消えていきます。その大きな理由は、戦国時代中期以降、物流の発展と戦国大名の大規模化により動員できる兵力が万単位になったからです。

 

兵力が数百や千程度なら、軍配者の縁起担ぎやマインドコントロールも効果がありますが、万単位になると、それも不可能になり兵力の迅速かつ安全な運用の方が重要になりました。

 

つまり、縁起担ぎのマインドコントロールよりも、大軍を出来るだけ迅速に合戦場に引っ張ってくる方が重要になったのです。こうして、メンタリスト軍配者はタクティクスやロジスティックスを重視する軍師へと存在が移行して行ったのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は軍配者から軍師への移行の原因と、軍配者の仕事について解説してみました。

 

元々はメンタリストだった軍配者が、戦国時代後期には軍勢の大規模化により限界を迎え、タクティクスやロジスティックスを重視する軍師へと移行していったんですね。

 

参考文献:戦国時代を読み解く新視点 歴史街道編集部編 PHP文庫

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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