12月11日に上映され、大ヒットを続けている『新解釈・三國志』既存の三国志を大胆にアレンジしながら黄巾の乱から赤壁の戦いまでの24年間を2時間の尺でまとめたコメディ作品ですが、三国志初心者の方には疑問が多い事も事実です。
今回は、そんな三国志初心者の皆さんの疑問点から、なんで将軍は1人じゃないのか?この点について分かりやすく解説します。
この記事の目次
将軍が1人ではない理由ズバリ!
どうして三国志では将軍は1人ではないのか?その理由は中国の将軍には、細かくランクがあり1種類ではないからです。
日本で将軍という場合、近代を除くとそれは征夷大将軍であり、鎌倉、室町、江戸と歴代のただ1人の将軍が国を統治したイメージですが、中国では将軍は皇帝に任命されて、兵を率いる軍人であり、国を統治する人ではありません。
なので必要に応じて、あるいは率いる兵数に応じて将軍のランクと人数は変化するのです。以下では沢山存在する中国の将軍のランクについて解説していきます。
大量にある将軍のランク
では、三国志における将軍のランクはどうなっているのでしょうか?
これは大体以下のようになっています。
1 | 大将軍 |
2 | 驍騎将軍・車騎将軍・衛将軍 |
3 | 撫軍大将軍・中軍大将軍・上軍大将軍・鎮軍大将軍・南中大将軍・輔国大将軍 |
4 | 征東将軍・征南将軍・征西将軍・征北将軍・鎮東将軍・鎮南将軍・鎮西将軍・鎮北将軍 |
5 | 安東将軍・安南将軍・安西将軍・安北将軍・平東将軍・平南将軍・平西将軍・平北将軍 |
6 | 前将軍・後将軍・左将軍・右将軍 |
どうでしょうか?
随分多いなーと思うかもしれませんが、これはほんの一部で実際には将軍号だけで125!あるそうです。つまり、上から下まですべての将軍が集合すると、125人はいるという事で、水滸伝の108の魔王よりも数が多い事になります。
ちなみに趙雲は、『新解釈・三國志』で劉備の息子の阿斗を救出した際に牙門将軍に任命されますが、それは、ここに出した将軍位ランクの遥かに下です。日本における将軍は、征夷大将軍だと、ただ1人でとても偉い感じですが、中国の将軍位は下位になると、まさにいくらでもいるその他大勢になってしまいます。
なぜ中国では、こんなに将軍が増えたのか?
では、どうして中国では125にまで将軍位が増加したのでしょうか?
中国は古代から文官が優位な国であり、戦は凶事とされ常設の将軍はいませんでした。そのために戦争が起きた場合だけ、臨時で将軍が置かれて戦争が終わると解かれていたのです。
しかし、1世紀にわたる三国志の時代は恒常的に戦争があり、将軍を臨時職にすることが出来ず常設するようになります。その結果、将軍にもランクをつけて、地位の上下を識別しないといけなくなり、時代と共に将軍号が増えていったのです。
関連記事:【素朴な疑問】戦争に敗れると将軍には、どんな罰が待っていたの?
将軍と幕府の意外な関係
最初に日本の征夷大将軍は、1人と書きましたが、これは源頼朝が鎌倉に幕府を開いた後の話であり、それ以前には、唐の律令制を導入した大和朝廷は将軍位も一部導入しています。
蝦夷討伐で著名な坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられたのはよく知られていますが、奈良時代の末には、大伴弟麻呂が初代の征夷大将軍に任じられました。
ちなみに征夷とは、夷(野蛮人)を征伐する役割を持つ将軍という意味です。また、上位の将軍になると戦うだけでなく、占領地の民政や賞罰なども行う必要があるので将軍府を開いて幕僚を配置して占領地の政治を行っています。
はい、勘のいい人はもうお分かりでしょう。将軍府は「幕府」とも言い、これこそが日本の武家政権、幕府の前身なのです。
従来、征夷大将軍の幕府は、戦争が終わり治安が安定すれば、大和朝廷に統治が引き継がれ消滅していましたが、源頼朝は鎌倉に幕府を開き、子孫代々将軍として東国を統治したので、支配は恒常的となります。
元寇の頃になると、鎌倉幕府の支配は西国にも及ぶようになり、全国支配の形が確立。その後、室町・江戸を通じ天皇に代わり全国を支配する機関へと発展していったのです。
関連記事:文聘(ぶんぺい)のリアル三國無双!五虎大将軍の関羽を倒し呉王・孫権には空城の計を使っちゃう!
【次のページに続きます】