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なんで将軍は1人じゃないの?【新解釈・三國志の疑問】


 

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桃園の誓いをする劉備、張飛、関羽

 

12月11日に上映され、大ヒットを続けている『新解釈・三國志』既存の三国志を大胆にアレンジしながら黄巾の乱から赤壁の戦いまでの24年間を2時間の尺でまとめたコメディ作品ですが、三国志初心者の方には疑問が多い事も事実です。

 

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

今回は、そんな三国志初心者の皆さんの疑問点から、なんで将軍は1人じゃないのか?この点について分かりやすく解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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将軍が1人ではない理由ズバリ!

順調に将軍まで出世する陳武

 

どうして三国志では将軍は1人ではないのか?その理由は中国の将軍には、細かくランクがあり1種類ではないからです。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

日本で将軍という場合、近代を除くとそれは征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)であり、鎌倉、室町、江戸と歴代のただ1人の将軍が国を統治したイメージですが、中国では将軍は皇帝に任命されて、兵を率いる軍人であり、国を統治する人ではありません。

 

なので必要に応じて、あるいは率いる兵数に応じて将軍のランクと人数は変化するのです。以下では沢山存在する中国の将軍のランクについて解説していきます。

 

大量にある将軍のランク

兵士 朝まで三国志

 

では、三国志における将軍のランクはどうなっているのでしょうか?

これは大体以下のようになっています。

 

1 大将軍
2 驍騎将軍・車騎将軍・衛将軍
3 撫軍大将軍・中軍大将軍・上軍大将軍・鎮軍大将軍・南中大将軍・輔国大将軍
4 征東将軍・征南将軍・征西将軍・征北将軍・鎮東将軍・鎮南将軍・鎮西将軍・鎮北将軍
5 安東将軍・安南将軍・安西将軍・安北将軍・平東将軍・平南将軍・平西将軍・平北将軍
6 前将軍・後将軍・左将軍・右将軍

 

どうでしょうか?

 

随分多いなーと思うかもしれませんが、これはほんの一部で実際には将軍号だけで125!あるそうです。つまり、上から下まですべての将軍が集合すると、125人はいるという事で、水滸伝の108の魔王よりも数が多い事になります。

 

新解釈・三國志 自分はモテると報告をする趙雲

 

ちなみに趙雲は、『新解釈・三國志』で劉備の息子の阿斗(あと)を救出した際に牙門将軍(がもんしょうぐん)に任命されますが、それは、ここに出した将軍位ランクの遥かに下です。日本における将軍は、征夷大将軍だと、ただ1人でとても偉い感じですが、中国の将軍位は下位になると、まさにいくらでもいるその他大勢になってしまいます。

 

趙雲

 

なぜ中国では、こんなに将軍が増えたのか?

五虎大将軍b 関羽、張飛、馬超、趙雲、黄忠

 

では、どうして中国では125にまで将軍位が増加したのでしょうか?

 

中国は古代から文官が優位な国であり、戦は凶事とされ常設の将軍はいませんでした。そのために戦争が起きた場合だけ、臨時で将軍が置かれて戦争が終わると解かれていたのです。

 

三国志のモブ 反乱

 

しかし、1世紀にわたる三国志の時代は恒常的に戦争があり、将軍を臨時職にすることが出来ず常設するようになります。その結果、将軍にもランクをつけて、地位の上下を識別しないといけなくなり、時代と共に将軍号が増えていったのです。

 

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将軍と幕府の意外な関係

京都御所

 

最初に日本の征夷大将軍は、1人と書きましたが、これは源頼朝が鎌倉に幕府を開いた後の話であり、それ以前には、唐の律令制(りつりょうせい)を導入した大和朝廷は将軍位も一部導入しています。

 

蝦夷討伐(えみしとうばつ)で著名な坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が征夷大将軍に任じられたのはよく知られていますが、奈良時代の末には、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が初代の征夷大将軍に任じられました。

 

ちなみに征夷とは、(えびす)(野蛮人)を征伐する役割を持つ将軍という意味です。また、上位の将軍になると戦うだけでなく、占領地の民政や賞罰なども行う必要があるので将軍府を開いて幕僚を配置して占領地の政治を行っています。

 

はい、勘のいい人はもうお分かりでしょう。将軍府は「幕府(ばくふ)」とも言い、これこそが日本の武家政権、幕府の前身なのです。

 

蒙古兵を弓矢で追い払う鎌倉武士

 

従来、征夷大将軍の幕府は、戦争が終わり治安が安定すれば、大和朝廷に統治が引き継がれ消滅していましたが、源頼朝は鎌倉に幕府を開き、子孫代々将軍として東国を統治したので、支配は恒常的となります。

 

元寇の頃になると、鎌倉幕府の支配は西国にも及ぶようになり、全国支配の形が確立。その後、室町・江戸を通じ天皇に代わり全国を支配する機関へと発展していったのです。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-新解釈・三國志