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この記事の目次
天に二つ日はなく、地に二人王はなし
ここで正史では異民族の酋長であった高定、あくまで自称太守の朱褒が反乱に参加。そして雍ガイの最大の注目ポイントであるのが、説得の手紙に対して言った言葉。
「天に二つ日はなく、地に二人王はなしと聞くが、現在では天下は鼎立して暦は三つもあり、田舎者である私は戸惑って誰に帰服したら良いのか解らない」という「慢心した」言葉を吐いて説得に応じることはありませんでした。
雍闓の最期(高定の部下に殺害)
雍闓はこの後、南蛮の異民族を味方に付けようと試みます。
これは流言を流したことから見事成功しましたが、永昌郡の役人の王伉と呂凱に対抗されてしまったことで諸葛亮に動く時間を与えてしまいました。最期は高定と仲違いを起こしたことでその部下に斬られ、高定自身も処刑されます。
余談ですが、自称太守だった朱褒は許されて太守に任命されました。正史ではこうして反乱は鎮圧されることとなりますが、最後に雍ガイについて、もう一度振り返ってみましょう。
雍歯の子孫
前述したように、雍ガイは劉邦に嫌われていたことで有名な雍歯の子孫と言われています。雍歯は張良の献策もあって、劉邦に恩賞を与えられました。嫌われている人間である雍歯が恩賞を賜ったことで周囲は安堵した、それが有名になり、君主が過去の恨みにとらわれずに褒賞を与えることの代名詞となっている人物です。
そしてそんな人物の子孫である雍ガイが残した「田舎者は戸惑って誰に帰服したら良いのか解らない」の言葉……慢心していった言葉、ただの世の混乱に付け込んだ反乱者……雍ガイはそれだけの人物だったのでしょうか。
当時、蜀は混乱の真っただ中。それ以前には関羽や張飛が部下に背かれている前例もあり、実は大なり小なり反乱の種を抱えている人間は少なくなかったのではないでしょうか。
もしかしたら雍ガイは、先祖のようにただ安心させて欲しかったのではないでしょうか?
そう考えると雍ガイはもしかしたら、時代に振り回され、名に囚われ……最後にただ「慢心した」と記されただけの人物とはまた別の一面を持った人物だったのではないか、とも思うのでしょうが、今となってはもう、仮説でしかないのが物寂しいところですね。
三国志ライター センのひとりごと
雍ガイは三国志演義では、反乱を起こしたにも関わらず、いや、反乱を起こしたからこそ味方を信頼できないまま、自分に同調してくれた人物に殺されます。疑心暗鬼に陥った人物の末路といえばそこまでですが、三国志演義でこの終わりを用意したのはもしかしたら、当時でも雍ガイにそんな印象を抱いた人がいたからではないかと思うのです。
慢心ではなく、疑心だった……そんな別の側面。それを考えてみると、なかなかどうして、ほろ苦い結末に見えてきますね。
参考文献:蜀書呂凱伝 史記高祖本紀 三国志演義
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