【オスマン帝国史】623年も続いた多民族国家はどうして繫栄し滅亡した?

2021年3月13日


 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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偉大なスレイマンの治世

 

セリム1世を継いだスレイマン1世の時代はオスマン帝国専制政治の全盛期となります。オスマン帝国は1526年にモハーチの戦いでハンガリー軍を破り、1529年にはウィーンを包囲、宗教改革期の欧州に大きな脅威を与えました。

 

ウィーン包囲は長期化して失敗に終わりますが、スレイマン1世は地中海支配に転じ、1522年にはロードス島を征服してヨハネ騎士団をクレタ島に追放。

 

1538年にはプレヴェザの海戦に勝利して、神聖ローマ・ローマ教皇・ヴェネチアの連合艦隊を破り地中海の制海権を獲得。東方ではサファヴィー朝と戦い領土を拡大します。

 

ガレオン船(世界史)

 

スレイマン1世は、1534年にイラクを征服してペルシャ湾からインド洋への関心を深め、1538年にオスマン海軍は、先に勢力を伸ばしていたポルトガルの拠点ディヴを攻撃しますが、これは成功しませんでした。

 

スレイマン1世は大帝と呼ばれるほどに領土を拡大しましたが、一方で異文化にも強い関心を示し、特にヨーロッパ文化を取り入れました。

 

外交でもヨーロッパ諸国の国際関係に介入し、フランス王フランソワ1世と結んで神聖ローマ帝国のカール5世と対立するほか、フランス商人にオスマン帝国内での居住や通商特権を認めています。

 

このようなヨーロッパへの恩恵的待遇は、スレイマン1世の時代に実害はありませんでしたが、オスマン帝国が凋落して欧州との力関係が逆転するとヨーロッパ勢力のオスマン帝国への浸食の道具として利用される事になります。

 

大宰相の台頭

 

しかし、スレイマン1世の死後、拡大し過ぎた領地経営にオスマン帝国は悩む事になります。1600年代に入ると、スルタン(オスマン帝国の君主号)は政治の実権を失い宮廷出身の軍人が大宰相(ヴェズィラーザム)としてスルタンの絶対代理人を務め政治の実権を握っていきました。

 

1622年、16代スルタンオスマン2世は強大化して既得権益集団となったイェニチェリ軍団の改革をはかりますが逆に反乱が起きて暗殺されてしまいます。また、この頃、スルタンの後宮が政治に絡むなど、オスマン帝国の繁栄には陰りが見えるようになりました。

 

17世紀前半の欧州大陸では、バルカン半島でのハプスブルグ家神聖ローマ帝国が30年戦争で混乱し、オスマン帝国は侵攻のチャンスでしたが、この時代にはオスマン帝国に動きはありません。

 

逆に東方のサファヴィー朝では名君アッバース1世が即位し、1623年にはバグダートを奪還されました。しかし、アッバース1世が死ぬと1638年にオスマン帝国はバグダートを回復しています。

 

1683年スルタンに代わり実権を握った大宰相カラ=ムスタファは、スレイマン1世にならい第2次ウィーン包囲を実行しました。この包囲は同盟国フランスのルイ14世に了解を得た上での軍事行動でしたが、神聖ローマ皇帝のレオポルド1世はウィーンを脱出。

 

バイエルン、ザクセン、ロートリンゲンなどのドイツ諸侯、そしてポーランドに援軍を要請して迎撃したので、オスマン帝国はウィーンを落とす事が出来ず退却し、以後、オスマン帝国の欧州への影響力は低下します。

 

ウィーン包囲を解いたオスマン軍に対し、レオポルド1世は追撃し、ローマ教皇の仲介でポーランドとヴェネチア、ロシアと神聖同盟を結び十字軍の再来としてオスマン帝国領内に侵攻しました。

 

オスマン帝国は神聖同盟に勝てずに1699年にカルロヴィッツ条約を結んでハンガリーをオーストリアに奪われてしまいます。建国より400年、拡大を続けてきたオスマン帝国の栄光も斜陽の時を迎えつつありました。

 

斜陽のオスマン帝国

 

18世紀の前半、オスマン帝国はロシアのピョートル大帝の侵攻を食い止め、しばらく平和が続きます。

 

こうしてチューリップ時代という相対的に安定した時代を迎えたオスマン帝国では、フランス文化の受け入れが図られていきオスマン帝国全体がフランス流の文化で満ち溢れ、フランス風のダンスや飲酒も行われました。

 

しかし隣接するドイツ、オーストリアの進出、エカテリーナ2世時代のロシアの南下政策でクリミア半島を失うなど、オスマン帝国の領土は侵食され縮小していきます。さらに支配下のアラブ人のアラブ民族主義運動が始まり、アラビア半島に興ったイスラーム改革運動であるワッハーブ派が独自のワッハーブ王国を樹立するまでになりました。

 

急激に変化する国内、国際情勢でしたがオスマン帝国内部では古いイェニチェリの勢力が残存し、またアーヤーンと言われる地方有力者がオスマン帝国から徴税請負の権利を買って、住民を搾取(さくしゅ)して富を貯え専制体制が崩壊して分権が進みます。こうして古き大国オスマン帝国でも、ようやく改革の必要性が叫ばれるようになっていきます。

 

エジプト総督との戦い

フランス革命

 

フランス革命と同時期に即位したセリム3世が老朽化したオスマン帝国の改革に着手します。ついで1826年マフマト2世が、足手まといになっていた守旧派イェニチェリの全廃という思い切った手を打ちました。

 

ナポレオン

 

しかし、対外的にはオスマン帝国は劣勢であり、ナポレオンのエジプト遠征を契機にエジプト総督のムハンマド=アリーが政権を樹立しオスマン帝国から独立。1821年には同じくオスマン領のギリシャでギリシャ独立戦争が勃発。ヨーロッパ諸国はオスマン帝国の民族独立運動に介入し、東方問題と呼ばれる列強の対立が表面化しました。

 

1827年ナヴァリノ海戦で、オスマン帝国海軍は英仏露の連合艦隊に敗れ、近代化の遅れを露呈させます。1829年にオスマン帝国は、ロシアとアドリアノープル条約で黒海北岸を割譲し、1830年のロンドン会議でギリシャの独立を承認。この結果オスマン帝国の威信は大きく低下しました。

 

これを受けフランスは1830年にシャルル10世が北アフリカのアルジェリアに出兵。アルジェリアはオスマン帝国を宗主国としていましたが、弱体化していた帝国は救援出来ず、抗議文を出すだけで精一杯でした。

 

1831年、オスマン帝国の属州エジプトの総督ムハンマド=アリーは分離独立を目指して戦いを挑み、ギリシャ戦争でオスマン帝国の指揮下で戦った功績を理由にシリアの行政権を認めるようにマフマト2世に迫ります。しかし、マフマト2世は拒否、1831年にはエジプト=トルコ戦争が起こりました。

 

この戦いではオスマン帝国はロシアに支援を要請。ロシア海軍が海峡に出兵した事でロシアの南下を恐れるイギリス・フランスがオスマン帝国に圧力をかけてエジプトのシリア支配を認めさせ停戦となります。

 

オスマン帝国はイギリスとフランスに不信感を持ち、以後ロシアに接近していきました。

 

エジプトの分離独立

 

オスマン帝国は1833年ロシアのニコライ1世とウンキャル=スケレッシ条約を結び、ロシア艦隊の黒海とダーダネルス=ボスフォラス海峡の航行権を認め、他国の軍艦の通行を禁止する条件で軍事的な支援を受けます。

 

イギリスはロシアの南下を警戒していましたが、同時にエジプトのムハンマド=アリー朝が、イギリスのインド経営に障害を生じさせると恐れ、オスマン帝国との結びつきを強めようと、1838年不平等条約であるトルコ=イギリス通商条約を締結します。

 

1839年マフムト2世はシリア奪還を目指し、第2次エジプト=トルコ戦争を引き起こしますが、軍を近代化していたエジプト軍に緒戦で大敗。さらにマフムト2世が急死するという不幸に見舞われました。

 

格下と侮っていたエジプトに敗北したオスマン帝国は衝撃を受け、アブデュルメジト1世がスルタンに即位した後、1839年にギュルネ勅令を発しタンジマート(恩恵改革)と言われる政治・軍事・経済の近代化に取り組み始めます。

 

第2次エジプト=トルコ戦争では、イギリスがオスマン帝国の軍事行動に危惧を覚えつつもオスマン帝国の敗北を受けて支援を強化。オーストリアとプロシアを誘いエジプト軍を攻撃し、ロシアもウンキャル=スケレッシ条約に従い、オスマン帝国を支援します。ムハンマド=アリーに唯一友好的なフランスは動かず、アリーは孤立し講和に応じる事になりました。

 

1840年、フランスと紛争当事国のオスマン帝国、ムハンマド=アリーを除外しイギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアの4カ国はロンドン会議を開催。

 

会議では、ムハンマド=アリーのエジプトとスーダン総督の地位の世襲を認め、シリアはオスマン帝国へ返還する事が取り決められました。シリアを返還されたオスマン帝国ですが、エジプトが独立し宗主国としての関係を保つだけの屈辱的な結末となりました。

 

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クリミア戦争の後遺症

 

1841年、第2次エジプト=トルコ戦争の終結を受け、イギリス・フランス・オーストリア・ロシア・プロイセンは5国海峡協定を結び、オスマン帝国とロシアが締結したウンキャル=スケレッシ条約は破棄、ダータネルス=ボスフォラス海峡は再び封鎖されロシアの南下は一時停止します。

 

しかし、オスマン帝国の弱体化に乗じてロシアは再び南下政策を開始。これに対しフランスのナポレオン3世が介入、イギリスもロシアの東地中海進出によるインドルートの遮断を恐れてオスマン帝国を支援します。

 

1853年イギリス、フランス、オスマン帝国の連合軍とロシアが激突しクリミア戦争が勃発しました。

 

クリミア戦争では、イギリス・フランス軍がロシアを破り、その南下は一時食い止められますが、自力でロシアの南下を阻止できなかったオスマン帝国は多額の資金援助をイギリス・フランスから受けて、その引き換えに内政干渉を受ける形になり、領内のキリスト教徒に対する人権保障などの要求が強まる事になりました。

 

アブデュルメジト1世は、治世の前半では名宰相ムスタファ・レシト・パシャの補佐もあり開明的な人物であり、フランス・イギリスの圧力もありながら国内の近代化を勧め1856年にオスマン主義を掲げる改革勅令を発布。

 

非イスラーム教徒にもイスラーム教徒と同等の政治参加、裁判の権利、信教の自由などの権利を与え、前年には非イスラーム教徒に課していた人頭税(ジズヤ)を廃止します。

 

多民族・多宗教国であるオスマン帝国は、人種も民族も宗教も違う帝国領民に対し、相違を越えてオスマン帝国の臣民として対等であるとするオスマン主義を打ち立てて、難局を乗り切ろうとしたのです。

 

しかし、1861年にアブデュルメジト1世が死去すると、その後の2代のスルタンの治世で改革は停滞。またクリミア戦争の外債依存による財政赤字が続き、1873年にはアナトリアで飢饉が発生、さらにヨーロッパ資本主義と結びついた経済により世界初の大恐慌にも巻き込まれオスマン帝国は債務不履行を宣言し破産状態に陥りました。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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