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新オスマン人の台頭
内憂外患の酷い状況下で、オスマン帝国内では君主の恩恵程度の中途半端な改革ではなく、国民主権の確立、立憲政治の導入などの徹底的な西欧化が必要だと考える知識人が出現し新オスマン人と呼ばれます。
専制を否定する改革派をオスマン帝国は弾圧しますが、改革派は亡命しつつも出版物を発行して立憲主義や国民国家の宣伝を行い、次第に帝国領内の人々にも受け入れられていきます。
新オスマン人とは、宗教や民族を越えて「オスマン人」として自覚する事を掲げたもので、1856年に出された改革勅令に出されたオスマン主義の潮流に沿った内容でした。
アジア初のミドハド憲法を発布
新しいスルタン、アブデュルハミト2世が即位した頃、オスマン帝国は財政破綻し、対外的にはバルカン半島でのロシアの介入が強まっていました。アブデュルハミト2世はこの危機を回避し、フランスやイギリスの支持を引き出すためにロシアに先んじて憲法を制定して近代国家としての体裁を整える道を選びます。
そして、改革派官僚で宰相のミドハド=パシャに命じ改革派ウラマーと新オスマン人のナームク=ケマルを憲法制定委員として短期間で「オスマン帝国憲法」の草案をまとめ、1876年12月23日にミドハド憲法を公布します。
これはアジアで最初の憲法となり、議会の開設、帝国臣民の宗教や民族の違いをなくし全て平等な「オスマン人」とするなど画期的な内容を含んでいました。しかし、スルタンであった叔父をクーデターで追放した改革派にアブデュルハミト2世は不信感を持ち、憲法に強力な君主大権を盛り込んでおり警戒を緩めませんでした。
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アブデュルハミト2世による上からの近代化
クリミア戦争敗戦で一度後退したロシアは、アレクサンドル2世が農奴解放などの上からの近代化を図って国力を回復し1870年代に再び南下政策を強めます。1877年ロシアはスラブ系民族キリスト教徒(ギリシャ正教)の保護を口実にオスマン帝国に宣戦を布告し、露土戦争が起こります。
装備に劣るオスマン帝国は、各地で敗戦を重ね、アブデュルハミト2世は「非常時には君主に権限を集中すべし」として憲法113条の非常大権を行使し議会を閉鎖し憲法を停止しました。
そして、ロシア軍がイスタンブールに迫る中、1878年3月にイスタンブル近郊で講和条約が開かれサン=ステファノ条約が締結。オスマン帝国はバルカン半島を失う大幅な譲歩を余儀なくされます。
ロシアがバルカン半島に進出すると、それに対してオーストリア=ハンガリー帝国とイギリスが強く反発し戦争の危機が到来します。そこでドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルクが両者の調停に乗り出し、オスマン帝国を犠牲にする形でヨーロッパ列強の不満を解消し平和を実現しようとします。
ここでベルリン条約が結ばれ、オスマン帝国領ルーマニア、セルビア、モンテネグロのバルト三国は独立。ブルガリアはオスマン帝国の自治領に留まるものの領土を1/3に縮小、オスマン帝国領のボスニア・ヘルツェゴヴィナはオーストリアの統治権が認められオスマン帝国領のキプロス島の統治権はイギリスに認められます。
帝国が縮小する中でアブデュルハミト2世は、より独裁傾向を強め改革派を弾圧、領内にスパイ網を張り巡らせて密告を奨励し非正規軍ハミディイェを組織。
徹底的な弾圧と粛清を繰り返し、赤い流血の皇帝と呼ばれて恐れられました。一方で個人としては開明的だったアブデュルハミト2世は、鉄道の施設や統治機構の整備などで辣腕を振るい、1897年のギリシャ=トルコ戦争ではギリシャに勝利するなど軍の近代化も進めました。
アブデュルハミト2世は、同じ頃に極東のアジアで起きていた明治維新の近代化にも関心を示して共感し、明治天皇を評価していたようです。
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オスマン帝国立憲君主制へ移行
アブデュルハミト2世の独裁は四半世紀以上に及びますが、1908年に青年トルコによる青年トルコ革命が起きて、アブデュルハミト2世は退位しオスマン帝国は立憲君主制へと移行します。
しかし、この革命に乗じてオーストリア=ハンガリー帝国はボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を強行。オスマン領内のブルガリアも完全独立を宣言します。
1911年にはイタリアが、オスマン帝国領のトリポリ・キレナイカに侵攻してイタリア=トルコ戦争が起こり、セルビア・ブルガリア・ギリシャなどのバルカン諸国は1912年にバルカン同盟を結成して、オスマン帝国領に侵攻、オスマン帝国は領土を急激に失いました。
この緊急事態に1914年エンヴィル=パシャ率いる青年トルコは、スルタンから実質的権限を奪うクーデターを起こして青年トルコ政権を樹立。立憲君主政・議会政を形骸化して軍部独裁政権としました。第1次世界大戦が勃発すると、青年トルコ政権は反ロシア、反スラブ民族の立場からドイツ・オーストリアの同盟国側について参戦します。
それに対してイギリスは実質的に支配下においていたエジプトを完全な完全な保護国とする事をオスマン帝国に通知してオスマン帝国からエジプトを分離しスエズ運河を確保しました。
オスマン帝国軍は2万の軍勢をエジプトに送りますが、結局イギリス軍に敗北しエジプトを完全に失いました。
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ガリポリでの奮戦と第1次世界大戦での敗北
オスマン帝国は、ダーダネルス海峡進出を狙うイギリス・フランス軍とガリポリの戦いでは勝利するなど健闘します。このガリポリの戦いでは、後にトルコ共和国を建国する軍人ムスタファ=ケマルの活躍がありました。
しかし他の同盟国と同じように戦争が継続するにつれて、オスマン帝国は劣勢に立たされていきました。戦況は悪化の一途をたどり、バルカン半島では首都イスタンブールに連合軍が迫り、中東ではイギリス軍がエジプトからパレスティナに侵攻。さらにアラブ人の反乱も拡大してオスマン軍は敗北を重ねます。
ここで、青年トルコ政府の傀儡になっていた最期のスルタン、メフメト6世は、極秘に連合国と取引して自己の地位の保障を引き換えに1918年10月30日に降伏を受け入れ停戦に応じます。
これにより、政権を握る青年トルコ政府は裏切られた形になり、エンヴェル=パシャはドイツに亡命。青年トルコ政権は倒れました。同盟国の主力だったドイツも11月には降伏し、オスマン帝国を含む同盟国側は敗北します。
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オスマン帝国の滅亡
第1次世界大戦は終結しましたが、西アジアでイギリス軍に支援されたアラブ軍と戦っていたガリポリの英雄、ムスタファ=ケマルは降伏を拒否し抵抗を続けていました。
1919年5月には、イギリスの支援を受けたギリシア軍がイズミルに侵攻しギリシア=トルコ戦争が勃発。ムスタファ=ケマルはトルコ国民軍を組織してゲリラ戦で抵抗、1920年4月にはアンカラにトルコ大国民議会を招集して国民軍を組織し戦争を継続します。
ところが逆に、スルタン政府は1920年8月、セーヴル条約を締結し帝国領を分割してイギリスとフランスの委任統治とすることを承認します。この売国条約は、トルコ民族の激しい反発を呼び起こし、オスマン帝国の権威は完全に失墜。逆に西アジアで戦うムスタファ=ケマルの国民軍への期待が高まりました。
ムスタファ=ケマルのトルコ国民軍は1921年8月、ギリシア軍を破って形勢を逆転。1922年、ムスタファ=ケマルの指導する大国民議会は満場一致でスルタン制廃止を可決。メフメト6世はイギリス軍艦でマルタ島に亡命し、623年続いたオスマン帝国は滅亡しました。
オスマン帝国の崩壊を早めた民族問題
オスマン帝国は拡大に拡大を続けた帝国であり、全盛期には欧州から西アジア、北アフリカに及ぶ広大な領地にムスリム以外にも、多くのキリスト教徒、ユダヤ教徒などの異教徒を抱え、支配層としてのトルコ人以外に、アラブ人、スラブ人、ギリシャ人、エジプト人アルメニア人、クルド人などの多民族を抱えていました。
帝国の末期には、ギュルハネ勅令から始まるタンジマート(恩恵改革)の観念から「オスマン主義」の考え方が採用され1876年のミドハド憲法ではそれらが活かされて領内の全ての民族に宗教や人種の区別なく平等な権利を与えてゆるい統合を目指そうとします。
しかし、1877年の露土戦争でロシアに敗れ、ベルリン条約でバルカン半島のほぼすべてを失うと、帝国領内のキリスト教徒は激減し、逆にバルカン半島から多くのトルコ人イスラーム教徒が帝国内に流れ込んできます。これにより多様な民族と宗教を認めるオスマン主義は後退し、トルコ民族主義が色彩を強めていきました。
1914年にクーデターで政権を握った青年トルコは、トルコ民族主義を標榜して帝国領外のトルコ人との連帯を主張し、帝国領内の非トルコ系民族、特にアラブ人やアルメニア人への差別を強め、第1次世界大戦中のアラブの反乱やアルメニア人虐殺の事態を生み
オスマン帝国を崩壊へと導いていく事になるのです。
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まとめ
オスマン帝国は1299年にオスマン=ベイが小アジアに建国してより1922年の滅亡まで、623年も継続した長い歴史を持つ帝国です。
その長寿命には様々な要因があるのですが、オスマン帝国が領国内の非イスラーム系の民族を排斥したり、イスラム教を押し付けたりせず、課税のような緩い罰則でその多様性を認めたのも大きな理由ではないかと思います。
しかし多様で寛容なオスマン帝国はバルカン半島をロシアに奪われ、国内のキリスト教徒が激減した頃からオスマン主義を捨てトルコ民族主義を採用し領内の非イスラーム民族を差別し弾圧するようになります。
これにより、第1次世界大戦中にはアラブ人反乱やアルメニア人反乱が続発し、民族統合で成り立つオスマン帝国は存続が難しくなり、解体滅亡してしまったのです。
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