13世紀の末に小アジアに建国して以来、東西貿易の要衝であるイスタンブールを首都にして20世紀の初頭まで623年も栄えたのがオスマン帝国です。過去はオスマントルコと呼ばれていましたが、現在ではオスマン帝国と呼ばれる事が普通ですので、この記事でもオスマン帝国の呼称で統一します。
欧州に比較し、メジャーではないオスマン帝国ですが、一体どうして建国され繁栄し、そして滅亡していったのでしょうか?
この記事の目次
オスマン帝国初期
13世紀の小アジア(アナトリア)西部はセルジューク朝の地方政権ルーム=セルジューク朝が支配していましたが、十字軍の侵攻を受けて衰退、さらに東方からモンゴルの侵入を受けて、1242年にはその属国となります。
ルーム=セルジュークの弱体化で、小アジアには、トルコ人のイスラム戦士の集団ガーズィーが無数に誕生して抗争を開始。その中で有力勢力はベイ(君侯)を自称して小規模な君侯国が誕生しました。オスマン帝国の創始者であるオスマン=ベイもそんな君侯の1人で1299年、オスマンはガーズイーを率いて小国家を独立させます。
2代目のオルハン=ベイは西のビザンツ帝国の弱体化に標的を絞って侵攻を繰り返しビザンツ領のブルサを奪い、1326年に最初の首都を設置。
その後もオスマン君侯国は、小アジアの小さな国を併合し領土を拡大、イスラム法学者のウラマーを招いて統治機構を整えていきました。こうしてオスマン帝国は大帝国への足掛かりを築く事になります。
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コンスタンティノープルの包囲まで
14世紀になると、オスマン帝国はビザンツ帝国の分裂に乗じる形でダータネルス海峡からバルカン半島へ勢力を拡大。1361年頃には、ムラト1世がアドリアノープルを攻略し1366年には新都市エディルネと改称します。
さらに、オスマン帝国は北上してセルビア、ブルガリアなど現地勢力を下しながら侵攻し、ムラト1世は1389年のコソヴォの戦いで、次のバヤジット1世は1396年ニコポリスの戦いで、それぞれキリスト教連合国を撃破、コンスタンティノープルを包囲する形成を固めました。
ティムールの悪夢
しかし、この頃に東方からチンギスハーンの末裔を名乗るティムールが小アジアに侵攻。バヤジット1世は軍を東に向けて1402年にティムールとアンカラで戦い敗北します。バヤジットはティムール軍の捕虜となり身代金交渉の途中で死去しました。
バヤジット1世の急死により、オスマン領内は4人の息子が後継者争いを演じる事になり帝国は衰退。ビザンツ帝国は包囲を解かれ滅亡を免れます。一方ティムールは、これ以上西方には行かず、今度は明王朝との戦いに向かったのでオスマン帝国はティムールの危機を回避できました。
メフメト2世がビザンツ帝国を滅ぼす
やがて、4人の王子からメフメト2世が抜け出してオスマン帝国を相続し、戦力として領内のキリスト教徒の子弟イェニチェリを強制徴募しイスラム教に改宗させ訓練するデウシルメ制を採用し常備軍として確立します。
オスマン帝国は当時実用化された鉄砲を逸早く導入してイェニチェリに装備する事で軍事力を強化。やがて騎兵の時代から鉄砲を装備した歩兵軍団の戦いに戦法がシフトするとイェニチェリはオスマン帝国軍の中核を為すようになります。
国内の改革を成し遂げたメフメト2世は父バヤジット1世の時代に頓挫していたコンスタンティノープル包囲を再開。1453年に、ついにビザンツ帝国を滅ぼしコンスタンティノープルをイスタンブールと改称して首都と定めました。
ビザンツ帝国の崩壊がイタリアルネサンスに繋がる
ビザンツ帝国を併合したメフメト2世はバルカン半島のほぼ全域を征服し、カフカス地方や北海北岸にも領土を拡大します。
この地域は東方キリスト教の世界であり、オスマンの脅威を西ヨーロッパのキリスト教国に伝えると同時に、ビザンツ帝国の滅亡と前後して多くのギリシャ人学者がフィレンツェに亡命した事でイタリアのルネサンスに刺激を与える事になりました。
オスマン帝国の領土拡大は続きます。セリム1世は1514年にイランから侵攻してきたサファヴィー朝軍をチャルディランの戦いで撃破し領土を東方に拡大。1517年にはエジプトマムルーク朝を倒して聖地メッカとメディナの保護権を得たと考えられています。
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オスマン帝国拡大の秘密
どうして、小アジアのアナトリアに誕生した成り上がりの君侯が興したオスマン帝国が千年も栄えたビザンツ帝国を滅ぼし、バルカン半島を征服しエジプトまで支配下に収めたのでしょうか?
その大きな理由は、オスマン帝国を建国した人々に良い意味でアイデンティティが無かったからです。オスマン帝国は征服した領土の人民をイスラーム教徒か非イスラームかで分離して税金の額や社会的な地位にランクをつけましたが、それらはイスラム教に改宗さえすれば無くなるハードルでした。
そして、仮にイスラム教に改宗しなくても、才能と能力があれば、民族や宗教を問わず、どんどん採用し登用する寛容さをオスマン帝国は持っていたのです。
オスマン帝国では民族による優位は余りなく、いかに帝国に忠誠を尽くしているかというオスマン人としての貢献が評価され、実力主義の色彩が強かったようです。事実、オスマン帝国の為政者は公用語さえ定めず、帝国領内では様々な言語が優劣なく飛び交っていました。
この自由な能力主義の帝国が、勢力を伸ばしていけたのは、ある意味では当然の帰結だったのです。
偉大なスレイマンの治世
セリム1世を継いだスレイマン1世の時代はオスマン帝国専制政治の全盛期となります。オスマン帝国は1526年にモハーチの戦いでハンガリー軍を破り、1529年にはウィーンを包囲、宗教改革期の欧州に大きな脅威を与えました。
ウィーン包囲は長期化して失敗に終わりますが、スレイマン1世は地中海支配に転じ、1522年にはロードス島を征服してヨハネ騎士団をクレタ島に追放。
1538年にはプレヴェザの海戦に勝利して、神聖ローマ・ローマ教皇・ヴェネチアの連合艦隊を破り地中海の制海権を獲得。東方ではサファヴィー朝と戦い領土を拡大します。
スレイマン1世は、1534年にイラクを征服してペルシャ湾からインド洋への関心を深め、1538年にオスマン海軍は、先に勢力を伸ばしていたポルトガルの拠点ディヴを攻撃しますが、これは成功しませんでした。
スレイマン1世は大帝と呼ばれるほどに領土を拡大しましたが、一方で異文化にも強い関心を示し、特にヨーロッパ文化を取り入れました。
外交でもヨーロッパ諸国の国際関係に介入し、フランス王フランソワ1世と結んで神聖ローマ帝国のカール5世と対立するほか、フランス商人にオスマン帝国内での居住や通商特権を認めています。
このようなヨーロッパへの恩恵的待遇は、スレイマン1世の時代に実害はありませんでしたが、オスマン帝国が凋落して欧州との力関係が逆転するとヨーロッパ勢力のオスマン帝国への浸食の道具として利用される事になります。
大宰相の台頭
しかし、スレイマン1世の死後、拡大し過ぎた領地経営にオスマン帝国は悩む事になります。1600年代に入ると、スルタン(オスマン帝国の君主号)は政治の実権を失い宮廷出身の軍人が大宰相(ヴェズィラーザム)としてスルタンの絶対代理人を務め政治の実権を握っていきました。
1622年、16代スルタンオスマン2世は強大化して既得権益集団となったイェニチェリ軍団の改革をはかりますが逆に反乱が起きて暗殺されてしまいます。また、この頃、スルタンの後宮が政治に絡むなど、オスマン帝国の繁栄には陰りが見えるようになりました。
17世紀前半の欧州大陸では、バルカン半島でのハプスブルグ家神聖ローマ帝国が30年戦争で混乱し、オスマン帝国は侵攻のチャンスでしたが、この時代にはオスマン帝国に動きはありません。
逆に東方のサファヴィー朝では名君アッバース1世が即位し、1623年にはバグダートを奪還されました。しかし、アッバース1世が死ぬと1638年にオスマン帝国はバグダートを回復しています。
1683年スルタンに代わり実権を握った大宰相カラ=ムスタファは、スレイマン1世にならい第2次ウィーン包囲を実行しました。この包囲は同盟国フランスのルイ14世に了解を得た上での軍事行動でしたが、神聖ローマ皇帝のレオポルド1世はウィーンを脱出。
バイエルン、ザクセン、ロートリンゲンなどのドイツ諸侯、そしてポーランドに援軍を要請して迎撃したので、オスマン帝国はウィーンを落とす事が出来ず退却し、以後、オスマン帝国の欧州への影響力は低下します。
ウィーン包囲を解いたオスマン軍に対し、レオポルド1世は追撃し、ローマ教皇の仲介でポーランドとヴェネチア、ロシアと神聖同盟を結び十字軍の再来としてオスマン帝国領内に侵攻しました。
オスマン帝国は神聖同盟に勝てずに1699年にカルロヴィッツ条約を結んでハンガリーをオーストリアに奪われてしまいます。建国より400年、拡大を続けてきたオスマン帝国の栄光も斜陽の時を迎えつつありました。
斜陽のオスマン帝国
18世紀の前半、オスマン帝国はロシアのピョートル大帝の侵攻を食い止め、しばらく平和が続きます。
こうしてチューリップ時代という相対的に安定した時代を迎えたオスマン帝国では、フランス文化の受け入れが図られていきオスマン帝国全体がフランス流の文化で満ち溢れ、フランス風のダンスや飲酒も行われました。
しかし隣接するドイツ、オーストリアの進出、エカテリーナ2世時代のロシアの南下政策でクリミア半島を失うなど、オスマン帝国の領土は侵食され縮小していきます。さらに支配下のアラブ人のアラブ民族主義運動が始まり、アラビア半島に興ったイスラーム改革運動であるワッハーブ派が独自のワッハーブ王国を樹立するまでになりました。
急激に変化する国内、国際情勢でしたがオスマン帝国内部では古いイェニチェリの勢力が残存し、またアーヤーンと言われる地方有力者がオスマン帝国から徴税請負の権利を買って、住民を搾取して富を貯え専制体制が崩壊して分権が進みます。こうして古き大国オスマン帝国でも、ようやく改革の必要性が叫ばれるようになっていきます。
エジプト総督との戦い
フランス革命と同時期に即位したセリム3世が老朽化したオスマン帝国の改革に着手します。ついで1826年マフマト2世が、足手まといになっていた守旧派イェニチェリの全廃という思い切った手を打ちました。
しかし、対外的にはオスマン帝国は劣勢であり、ナポレオンのエジプト遠征を契機にエジプト総督のムハンマド=アリーが政権を樹立しオスマン帝国から独立。1821年には同じくオスマン領のギリシャでギリシャ独立戦争が勃発。ヨーロッパ諸国はオスマン帝国の民族独立運動に介入し、東方問題と呼ばれる列強の対立が表面化しました。
1827年ナヴァリノ海戦で、オスマン帝国海軍は英仏露の連合艦隊に敗れ、近代化の遅れを露呈させます。1829年にオスマン帝国は、ロシアとアドリアノープル条約で黒海北岸を割譲し、1830年のロンドン会議でギリシャの独立を承認。この結果オスマン帝国の威信は大きく低下しました。
これを受けフランスは1830年にシャルル10世が北アフリカのアルジェリアに出兵。アルジェリアはオスマン帝国を宗主国としていましたが、弱体化していた帝国は救援出来ず、抗議文を出すだけで精一杯でした。
1831年、オスマン帝国の属州エジプトの総督ムハンマド=アリーは分離独立を目指して戦いを挑み、ギリシャ戦争でオスマン帝国の指揮下で戦った功績を理由にシリアの行政権を認めるようにマフマト2世に迫ります。しかし、マフマト2世は拒否、1831年にはエジプト=トルコ戦争が起こりました。
この戦いではオスマン帝国はロシアに支援を要請。ロシア海軍が海峡に出兵した事でロシアの南下を恐れるイギリス・フランスがオスマン帝国に圧力をかけてエジプトのシリア支配を認めさせ停戦となります。
オスマン帝国はイギリスとフランスに不信感を持ち、以後ロシアに接近していきました。
エジプトの分離独立
オスマン帝国は1833年ロシアのニコライ1世とウンキャル=スケレッシ条約を結び、ロシア艦隊の黒海とダーダネルス=ボスフォラス海峡の航行権を認め、他国の軍艦の通行を禁止する条件で軍事的な支援を受けます。
イギリスはロシアの南下を警戒していましたが、同時にエジプトのムハンマド=アリー朝が、イギリスのインド経営に障害を生じさせると恐れ、オスマン帝国との結びつきを強めようと、1838年不平等条約であるトルコ=イギリス通商条約を締結します。
1839年マフムト2世はシリア奪還を目指し、第2次エジプト=トルコ戦争を引き起こしますが、軍を近代化していたエジプト軍に緒戦で大敗。さらにマフムト2世が急死するという不幸に見舞われました。
格下と侮っていたエジプトに敗北したオスマン帝国は衝撃を受け、アブデュルメジト1世がスルタンに即位した後、1839年にギュルネ勅令を発しタンジマート(恩恵改革)と言われる政治・軍事・経済の近代化に取り組み始めます。
第2次エジプト=トルコ戦争では、イギリスがオスマン帝国の軍事行動に危惧を覚えつつもオスマン帝国の敗北を受けて支援を強化。オーストリアとプロシアを誘いエジプト軍を攻撃し、ロシアもウンキャル=スケレッシ条約に従い、オスマン帝国を支援します。ムハンマド=アリーに唯一友好的なフランスは動かず、アリーは孤立し講和に応じる事になりました。
1840年、フランスと紛争当事国のオスマン帝国、ムハンマド=アリーを除外しイギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアの4カ国はロンドン会議を開催。
会議では、ムハンマド=アリーのエジプトとスーダン総督の地位の世襲を認め、シリアはオスマン帝国へ返還する事が取り決められました。シリアを返還されたオスマン帝国ですが、エジプトが独立し宗主国としての関係を保つだけの屈辱的な結末となりました。
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クリミア戦争の後遺症
1841年、第2次エジプト=トルコ戦争の終結を受け、イギリス・フランス・オーストリア・ロシア・プロイセンは5国海峡協定を結び、オスマン帝国とロシアが締結したウンキャル=スケレッシ条約は破棄、ダータネルス=ボスフォラス海峡は再び封鎖されロシアの南下は一時停止します。
しかし、オスマン帝国の弱体化に乗じてロシアは再び南下政策を開始。これに対しフランスのナポレオン3世が介入、イギリスもロシアの東地中海進出によるインドルートの遮断を恐れてオスマン帝国を支援します。
1853年イギリス、フランス、オスマン帝国の連合軍とロシアが激突しクリミア戦争が勃発しました。
クリミア戦争では、イギリス・フランス軍がロシアを破り、その南下は一時食い止められますが、自力でロシアの南下を阻止できなかったオスマン帝国は多額の資金援助をイギリス・フランスから受けて、その引き換えに内政干渉を受ける形になり、領内のキリスト教徒に対する人権保障などの要求が強まる事になりました。
アブデュルメジト1世は、治世の前半では名宰相ムスタファ・レシト・パシャの補佐もあり開明的な人物であり、フランス・イギリスの圧力もありながら国内の近代化を勧め1856年にオスマン主義を掲げる改革勅令を発布。
非イスラーム教徒にもイスラーム教徒と同等の政治参加、裁判の権利、信教の自由などの権利を与え、前年には非イスラーム教徒に課していた人頭税(ジズヤ)を廃止します。
多民族・多宗教国であるオスマン帝国は、人種も民族も宗教も違う帝国領民に対し、相違を越えてオスマン帝国の臣民として対等であるとするオスマン主義を打ち立てて、難局を乗り切ろうとしたのです。
しかし、1861年にアブデュルメジト1世が死去すると、その後の2代のスルタンの治世で改革は停滞。またクリミア戦争の外債依存による財政赤字が続き、1873年にはアナトリアで飢饉が発生、さらにヨーロッパ資本主義と結びついた経済により世界初の大恐慌にも巻き込まれオスマン帝国は債務不履行を宣言し破産状態に陥りました。
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新オスマン人の台頭
内憂外患の酷い状況下で、オスマン帝国内では君主の恩恵程度の中途半端な改革ではなく、国民主権の確立、立憲政治の導入などの徹底的な西欧化が必要だと考える知識人が出現し新オスマン人と呼ばれます。
専制を否定する改革派をオスマン帝国は弾圧しますが、改革派は亡命しつつも出版物を発行して立憲主義や国民国家の宣伝を行い、次第に帝国領内の人々にも受け入れられていきます。
新オスマン人とは、宗教や民族を越えて「オスマン人」として自覚する事を掲げたもので、1856年に出された改革勅令に出されたオスマン主義の潮流に沿った内容でした。
アジア初のミドハド憲法を発布
新しいスルタン、アブデュルハミト2世が即位した頃、オスマン帝国は財政破綻し、対外的にはバルカン半島でのロシアの介入が強まっていました。アブデュルハミト2世はこの危機を回避し、フランスやイギリスの支持を引き出すためにロシアに先んじて憲法を制定して近代国家としての体裁を整える道を選びます。
そして、改革派官僚で宰相のミドハド=パシャに命じ改革派ウラマーと新オスマン人のナームク=ケマルを憲法制定委員として短期間で「オスマン帝国憲法」の草案をまとめ、1876年12月23日にミドハド憲法を公布します。
これはアジアで最初の憲法となり、議会の開設、帝国臣民の宗教や民族の違いをなくし全て平等な「オスマン人」とするなど画期的な内容を含んでいました。しかし、スルタンであった叔父をクーデターで追放した改革派にアブデュルハミト2世は不信感を持ち、憲法に強力な君主大権を盛り込んでおり警戒を緩めませんでした。
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アブデュルハミト2世による上からの近代化
クリミア戦争敗戦で一度後退したロシアは、アレクサンドル2世が農奴解放などの上からの近代化を図って国力を回復し1870年代に再び南下政策を強めます。1877年ロシアはスラブ系民族キリスト教徒(ギリシャ正教)の保護を口実にオスマン帝国に宣戦を布告し、露土戦争が起こります。
装備に劣るオスマン帝国は、各地で敗戦を重ね、アブデュルハミト2世は「非常時には君主に権限を集中すべし」として憲法113条の非常大権を行使し議会を閉鎖し憲法を停止しました。
そして、ロシア軍がイスタンブールに迫る中、1878年3月にイスタンブル近郊で講和条約が開かれサン=ステファノ条約が締結。オスマン帝国はバルカン半島を失う大幅な譲歩を余儀なくされます。
ロシアがバルカン半島に進出すると、それに対してオーストリア=ハンガリー帝国とイギリスが強く反発し戦争の危機が到来します。そこでドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルクが両者の調停に乗り出し、オスマン帝国を犠牲にする形でヨーロッパ列強の不満を解消し平和を実現しようとします。
ここでベルリン条約が結ばれ、オスマン帝国領ルーマニア、セルビア、モンテネグロのバルト三国は独立。ブルガリアはオスマン帝国の自治領に留まるものの領土を1/3に縮小、オスマン帝国領のボスニア・ヘルツェゴヴィナはオーストリアの統治権が認められオスマン帝国領のキプロス島の統治権はイギリスに認められます。
帝国が縮小する中でアブデュルハミト2世は、より独裁傾向を強め改革派を弾圧、領内にスパイ網を張り巡らせて密告を奨励し非正規軍ハミディイェを組織。
徹底的な弾圧と粛清を繰り返し、赤い流血の皇帝と呼ばれて恐れられました。一方で個人としては開明的だったアブデュルハミト2世は、鉄道の施設や統治機構の整備などで辣腕を振るい、1897年のギリシャ=トルコ戦争ではギリシャに勝利するなど軍の近代化も進めました。
アブデュルハミト2世は、同じ頃に極東のアジアで起きていた明治維新の近代化にも関心を示して共感し、明治天皇を評価していたようです。
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オスマン帝国立憲君主制へ移行
アブデュルハミト2世の独裁は四半世紀以上に及びますが、1908年に青年トルコによる青年トルコ革命が起きて、アブデュルハミト2世は退位しオスマン帝国は立憲君主制へと移行します。
しかし、この革命に乗じてオーストリア=ハンガリー帝国はボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を強行。オスマン領内のブルガリアも完全独立を宣言します。
1911年にはイタリアが、オスマン帝国領のトリポリ・キレナイカに侵攻してイタリア=トルコ戦争が起こり、セルビア・ブルガリア・ギリシャなどのバルカン諸国は1912年にバルカン同盟を結成して、オスマン帝国領に侵攻、オスマン帝国は領土を急激に失いました。
この緊急事態に1914年エンヴィル=パシャ率いる青年トルコは、スルタンから実質的権限を奪うクーデターを起こして青年トルコ政権を樹立。立憲君主政・議会政を形骸化して軍部独裁政権としました。第1次世界大戦が勃発すると、青年トルコ政権は反ロシア、反スラブ民族の立場からドイツ・オーストリアの同盟国側について参戦します。
それに対してイギリスは実質的に支配下においていたエジプトを完全な完全な保護国とする事をオスマン帝国に通知してオスマン帝国からエジプトを分離しスエズ運河を確保しました。
オスマン帝国軍は2万の軍勢をエジプトに送りますが、結局イギリス軍に敗北しエジプトを完全に失いました。
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ガリポリでの奮戦と第1次世界大戦での敗北
オスマン帝国は、ダーダネルス海峡進出を狙うイギリス・フランス軍とガリポリの戦いでは勝利するなど健闘します。このガリポリの戦いでは、後にトルコ共和国を建国する軍人ムスタファ=ケマルの活躍がありました。
しかし他の同盟国と同じように戦争が継続するにつれて、オスマン帝国は劣勢に立たされていきました。戦況は悪化の一途をたどり、バルカン半島では首都イスタンブールに連合軍が迫り、中東ではイギリス軍がエジプトからパレスティナに侵攻。さらにアラブ人の反乱も拡大してオスマン軍は敗北を重ねます。
ここで、青年トルコ政府の傀儡になっていた最期のスルタン、メフメト6世は、極秘に連合国と取引して自己の地位の保障を引き換えに1918年10月30日に降伏を受け入れ停戦に応じます。
これにより、政権を握る青年トルコ政府は裏切られた形になり、エンヴェル=パシャはドイツに亡命。青年トルコ政権は倒れました。同盟国の主力だったドイツも11月には降伏し、オスマン帝国を含む同盟国側は敗北します。
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オスマン帝国の滅亡
第1次世界大戦は終結しましたが、西アジアでイギリス軍に支援されたアラブ軍と戦っていたガリポリの英雄、ムスタファ=ケマルは降伏を拒否し抵抗を続けていました。
1919年5月には、イギリスの支援を受けたギリシア軍がイズミルに侵攻しギリシア=トルコ戦争が勃発。ムスタファ=ケマルはトルコ国民軍を組織してゲリラ戦で抵抗、1920年4月にはアンカラにトルコ大国民議会を招集して国民軍を組織し戦争を継続します。
ところが逆に、スルタン政府は1920年8月、セーヴル条約を締結し帝国領を分割してイギリスとフランスの委任統治とすることを承認します。この売国条約は、トルコ民族の激しい反発を呼び起こし、オスマン帝国の権威は完全に失墜。逆に西アジアで戦うムスタファ=ケマルの国民軍への期待が高まりました。
ムスタファ=ケマルのトルコ国民軍は1921年8月、ギリシア軍を破って形勢を逆転。1922年、ムスタファ=ケマルの指導する大国民議会は満場一致でスルタン制廃止を可決。メフメト6世はイギリス軍艦でマルタ島に亡命し、623年続いたオスマン帝国は滅亡しました。
オスマン帝国の崩壊を早めた民族問題
オスマン帝国は拡大に拡大を続けた帝国であり、全盛期には欧州から西アジア、北アフリカに及ぶ広大な領地にムスリム以外にも、多くのキリスト教徒、ユダヤ教徒などの異教徒を抱え、支配層としてのトルコ人以外に、アラブ人、スラブ人、ギリシャ人、エジプト人アルメニア人、クルド人などの多民族を抱えていました。
帝国の末期には、ギュルハネ勅令から始まるタンジマート(恩恵改革)の観念から「オスマン主義」の考え方が採用され1876年のミドハド憲法ではそれらが活かされて領内の全ての民族に宗教や人種の区別なく平等な権利を与えてゆるい統合を目指そうとします。
しかし、1877年の露土戦争でロシアに敗れ、ベルリン条約でバルカン半島のほぼすべてを失うと、帝国領内のキリスト教徒は激減し、逆にバルカン半島から多くのトルコ人イスラーム教徒が帝国内に流れ込んできます。これにより多様な民族と宗教を認めるオスマン主義は後退し、トルコ民族主義が色彩を強めていきました。
1914年にクーデターで政権を握った青年トルコは、トルコ民族主義を標榜して帝国領外のトルコ人との連帯を主張し、帝国領内の非トルコ系民族、特にアラブ人やアルメニア人への差別を強め、第1次世界大戦中のアラブの反乱やアルメニア人虐殺の事態を生み
オスマン帝国を崩壊へと導いていく事になるのです。
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まとめ
オスマン帝国は1299年にオスマン=ベイが小アジアに建国してより1922年の滅亡まで、623年も継続した長い歴史を持つ帝国です。
その長寿命には様々な要因があるのですが、オスマン帝国が領国内の非イスラーム系の民族を排斥したり、イスラム教を押し付けたりせず、課税のような緩い罰則でその多様性を認めたのも大きな理由ではないかと思います。
しかし多様で寛容なオスマン帝国はバルカン半島をロシアに奪われ、国内のキリスト教徒が激減した頃からオスマン主義を捨てトルコ民族主義を採用し領内の非イスラーム民族を差別し弾圧するようになります。
これにより、第1次世界大戦中にはアラブ人反乱やアルメニア人反乱が続発し、民族統合で成り立つオスマン帝国は存続が難しくなり、解体滅亡してしまったのです。
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