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孫晧は北伐に失敗していた?【隠された真実】

2021年5月26日


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孫晧の北伐(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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再び外戚が晋に投降

鄧禹と兵士

 

一時は回復した孫晧の威信も、鳳凰(ほうおう)元年(272年)に8月には再び失墜します。西陵督(せいりょうとく・)歩闡(ほせん)を武昌に戻るように孫晧が命じたところ、歩闡が突然の辞令を疑って応じず、城に拠って晋に降ったのです。

 

この歩闡は呉の丞相を務めた歩隲の子であり外戚も外戚でした。またしても面目を潰された孫晧は怒り、陸抗を派遣して城を包囲し歩闡を討ち取らせました。

 

炎上する城a(モブ)

 

孫晧の怒りは深く、歩闡と計略を同じくした数十人は皆な三族を皆殺しにしています。

 

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最後っ屁!

孔明の延命儀式のろうそくを倒してしまう魏延

 

以後、孫晧が自ら親征する事はなくなりましたが、ゲリラ的な行動はしているようで、西暦277年夏口督孫慎(そんしん)が、江夏や汝南に侵攻して民の住居を略奪しています。

 

晋軍を相手にしていない事から、略奪して地味にダメージを与える戦法のようですが、晋書によると同時期に、兗州・豫洲・青州・荊州・徐州・益州・梁州の広範囲で水害が起きていて、救援や物資援助が行われているので、それに付け込んだ火事場泥棒かも知れません。

 

荒れる黄河

 

だとすればかなりスケールが小さく、晋書にその事が記録されていないのも分かります。晋では、山賊の略奪程度にしか考えず、敢えて記録しなかったという事です。

 

しかし、晋書によると277年の5月、呉の武将邵凱(しょうがい)夏祥(かしょう)が人民七千人あまりを率いて投降したとあるので、人民や武将の投降はひっきりなしであったようです。この辺りを最後に呉からは魏に攻め込むような記述が消えていき、滅亡へのカウントダウンが開始されるのでした。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

次々と晋に逃げていく人民と武将の存在は、孫晧に無言の重圧を掛け続けたようです。それを一時的にでも払拭(ふっしょく)すべく皇帝親征によって国内に威信を示そうと孫晧は北伐をやろうとしたのではないでしょうか?

 

参考文献:正史三国志、晋書

 

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二宮の変

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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