こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
再び外戚が晋に投降
一時は回復した孫晧の威信も、鳳凰元年(272年)に8月には再び失墜します。西陵督歩闡を武昌に戻るように孫晧が命じたところ、歩闡が突然の辞令を疑って応じず、城に拠って晋に降ったのです。
この歩闡は呉の丞相を務めた歩隲の子であり外戚も外戚でした。またしても面目を潰された孫晧は怒り、陸抗を派遣して城を包囲し歩闡を討ち取らせました。
孫晧の怒りは深く、歩闡と計略を同じくした数十人は皆な三族を皆殺しにしています。
関連記事:三国志、本当は二国志だった?陳寿最大のタブーに迫る
関連記事:部下を粛清していた孫晧も陸抗には手を出せなかった?呉の最後の忠臣の生き様
最後っ屁!
以後、孫晧が自ら親征する事はなくなりましたが、ゲリラ的な行動はしているようで、西暦277年夏口督孫慎が、江夏や汝南に侵攻して民の住居を略奪しています。
晋軍を相手にしていない事から、略奪して地味にダメージを与える戦法のようですが、晋書によると同時期に、兗州・豫洲・青州・荊州・徐州・益州・梁州の広範囲で水害が起きていて、救援や物資援助が行われているので、それに付け込んだ火事場泥棒かも知れません。
だとすればかなりスケールが小さく、晋書にその事が記録されていないのも分かります。晋では、山賊の略奪程度にしか考えず、敢えて記録しなかったという事です。
しかし、晋書によると277年の5月、呉の武将邵凱と夏祥が人民七千人あまりを率いて投降したとあるので、人民や武将の投降はひっきりなしであったようです。この辺りを最後に呉からは魏に攻め込むような記述が消えていき、滅亡へのカウントダウンが開始されるのでした。
関連記事:呉は無政府状態だった?呉蜀王朝の会計帳簿を見るとわかる保有財産!
関連記事:司馬炎はなぜ呉を滅ぼすのに15年かかった?中華統一はどうでもいいの?
三国志ライターkawausoの独り言
次々と晋に逃げていく人民と武将の存在は、孫晧に無言の重圧を掛け続けたようです。それを一時的にでも払拭すべく皇帝親征によって国内に威信を示そうと孫晧は北伐をやろうとしたのではないでしょうか?
参考文献:正史三国志、晋書
関連記事:孫晧は司馬炎に玉璽を渡していたのか?消えた玉璽と玉璽肯定・否定論