司馬炎はなぜ呉を滅ぼすのに15年かかった?中華統一はどうでもいいの?

2021年5月1日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

 

王莽と戦う光武帝

 

中国大陸の歴史は、秦の始皇帝(しこうてい)以来、分裂しては統一されるという繰り返しでした。

 

普に降参する孫皓

 

正史三国志も司馬炎(しばえん)が建国した晋により最期に残った孫呉が滅亡する事で物語が終わるので、後世の私達は、司馬炎はきっと中華統一が悲願だったに違いないと思いがちです。

 

表情 kawausoさん02

 

しかし、司馬炎の行動を見てみると、そこまで呉を滅ぼす事に熱心でもなかった事が浮彫りになってくるのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



蜀滅亡から17年後の快挙?

降伏する劉禅

 

晋の母体である(そうぎ)が蜀を滅ぼしたのが西暦263年、そして晋により呉が滅ぼされたのが、280年、その間には17年の開きがあります。

 

司馬炎(はじめての三国志)

 

司馬炎が即位したのは265年ですから、そこからカウントしても15年間も司馬炎は、中華統一の動きを見せていません。

 

建業を捨てて武昌に首都移転する孫皓

 

その間、呉が強くなっていたのなら兎も角、孫晧(そんこう)の暴政下にあり豪族は離反、呉の重臣が晋に亡命する事も年中行事になっていて、大軍で推せば倒れそうな状態になっていました。

 

姜維と鄧艾

 

別に司馬炎の即位まで待たなくても、蜀を滅亡させた鄧艾に、そのまま呉の討伐を命じていれば、その時点で三国統一はなっていたような気もします。ここまで司馬炎の中華統一が遅れた理由は一体なんでしょうか?

 

関連記事:鄧艾の魅力に迫る!内政、軍政ともに活躍した武将

関連記事:姜維と鍾会はなんで手を組んだの?二人の思惑を考察

 



呉がザコなので放置

司馬炎の遺言を改ざんする楊駿

 

天下統一の動機の1つとして、敵国が自国ほどではないにしても侮れない国力を保持し、今後も脅威になり得る場合があります。

 

北伐したくてたまらない姜維

 

例えば蜀は諸葛亮(しょかつりょう)時代と姜維(きょうい)時代に度々北伐を繰り返し魏にダメージを与えていましたし、漢王朝の後継を自認するイデオロギーから魏を簒奪(さんだつ)者で不倶戴天(ふぐたいてん)の敵と見做したので、妥協も不可能で機会を見つけて叩き潰す必要がありました。

 

宴が生き甲斐 孫権

 

しかし、呉は孫権(そんけん)が皇帝に即位したので疎ましい存在ではありますが、孫晧の時代になると、北伐と呼べるような軍事進攻もなくなります。

 

蜀霍弋(かくよく)

 

精々、晋の霍弋(かくよく)に奪われた交阯を271年に虞汜(ぐし陶璜(とうこうが奪還したり、277年に夏口督の孫慎(そんしん)が江夏から汝南に軍を進めて、焼討ちをかけた上で、住民を略奪し帰還した程度の記述しかありません。

 

悩む司馬炎

 

このように呉は、イデオロギー的に決して相容れない相手でもなく、何より弱っちいので、大した脅威には成り得ず、わざわざ攻め込んで被害を受けたくないという消極的な心理が働いたとも考えられます。

 

関連記事:能力か血統か?司馬炎VS賈充VS杜預、三つ巴お家騒動

関連記事:【晋の皇帝 司馬炎の悩み】司馬家の後継者問題

 

八王の乱

 

呉よりも強い敵

漢帝国の宿敵で匈奴の名君(匈奴族)

 

もうひとつ司馬炎が中華統一に消極的だった理由は、西暦270年より涼州(りょうしゅう)鮮卑族(せんぴぞく)禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)が10年間も断続的に反乱を起こし、涼州刺史を2人秦州(しんしゅう)刺史を1人と合計3人の刺史を殺し、晋王朝にクリティカルなダメージを与えながら、暴れ回っていた事が挙げられます。

暴れまわる異民族に困る梁習

 

さらに271年には、南匈奴(みなみきょうど)劉猛(りゅうもう)も晋に反旗を翻し并州(へいしゅう)に攻め込んで、并州刺史劉欽(りゅうきん)に撃退されますが、翌年に劉猛が部下に殺害されるまで反乱は継続しました。

 

文鴦(ぶんごう)

 

司馬炎は、特に涼州の反乱に悩まされ名将文鴦(ぶんおう)、次には湯隆(とうりゅう)を派遣して樹機能の反乱を鎮圧しましたが、「樹機能の方が蜀や呉よりも強い」という感想をもらしています。結局、禿髪樹機能は279年の末に湯隆に敗れて斬殺されようやく反乱は終結しました。

 

山越族(異民族)

 

歴代の中国王朝を見ても、亡国の兆しは涼州や并州からの異民族の侵入ですから、司馬炎が涼州の反乱が片付くまでは呉に構っている暇がなかったのは、無理からぬ事でした。

 

関連記事:司馬懿の孫の司馬炎は何をした人なの?謎の占田法・課田法など解説

関連記事:司馬炎の息子は一体何人いたの??

 

群臣に戦争反対が多い

朝まで三国志201 観客2 モブでブーイング

 

また、晋国内で九品官人法による門閥貴族化が進んで、三国志初期の荒々しい気風が薄れて、戦争そのものを厭う気風が生まれた事も大きいです。

 

生まれつき高位が約束されている門閥貴族が軍隊を率いる要職に就くわけですから、最初からハングリーさの欠片もなく、敗北すれば罰があり、最悪戦死する従軍は可能な限り回避したいと考えるのは当たり前でした。

 

三国志を統一した司馬炎

 

このような事から、呉討伐は何度か浮上しては群臣の反対で消えるを繰り返していて、司馬炎もあわよくばやりたいが、反対を押し切ってまでは…と消極的だったのです。

 

関連記事:司馬炎は滅呉するまでに時間がかかった理由は?呉は手強かった?

関連記事:司馬炎は武帝・曹操に匹敵するほどの功績を残せなかった?

【次のページに続きます】

 

次のページへ >

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-はじめての晋, 司馬炎
-