孫晧は北伐に失敗していた?【隠された真実】

2021年5月26日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

普に降参する孫皓

 

呉のラストエンペラー孫晧(そんこう)()は、在位年数が10年以上と長い割に暴君イメージが強く、魏にとっては大した脅威にならなかったように描かれます。

 

呉よりも国力の劣る蜀でさえ五度の北伐(ほくばつ)を繰り出したのに情ないとお嘆きの呉ファンもいるかも知れませんが、驚くなかれ孫晧は一度北伐を企んで、そして失敗していたようなのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



建衡三年、孫晧北伐開始

建業を捨てて武昌に首都移転する孫皓

 

孫晧の北伐の記述は、呉志三嗣主伝(さんししゅでん)に登場し、内容は以下のようです。

 

建衡(けんこう)三年(271)春正月の末日、孫皓が多くの手勢を率いて華里(建業西方)に出御し、孫皓の母および妃妾もみな随行したが、東観令華覈(かかく)らが堅く諫言したので帰還した。

 

暴君・孫皓にしっかり意見を言う陸凱(りくがい)

 

とても、あっさりした内容で、見ようによってはただの一族を引き連れての巡幸に見えますし、諫言も贅沢を誡めたものに見えますが、この出来事は晋書、武帝紀にもあり、随分と意味合いが違うのです。

 

関連記事:司馬炎と劉禅は似た者同士?その理由とは?

関連記事:張悌(ちょうてい)とはどんな人?呉の滅亡に殉じ、壮烈な死を果たす最後の宰相

 

晋書では戦争として捉えている

三国志を統一した司馬炎

 

では、逆に攻め込まれた晋の記録、晋書武帝紀の271年の部分を見てみましょう。

 

泰始(たいし)七年(271年) 三月、孫晧が人民を率いて寿陽に赴いた。大司馬の司馬望を淮北に駐屯させこれを防いだ。

行軍する兵士達a(モブ)

 

晋書では、孫晧の物見遊山とは考えておらず大司馬の司馬望(しばぼう)を淮北に駐屯させて防いでいます。この時、司馬望は中軍2万と騎兵3000を率いたそうですが、間もなく孫晧が撤退したので、戦を交える事無く退却しました。

 

司馬望は、司馬懿の兄弟司馬孚の子で、対蜀戦線では姜維を牽制して付け入る隙を与えなかった名将であり、司馬炎が孫晧の行動を割と深刻に見ていた様子が窺えます。

 

関連記事:司馬炎の皇位は「譲ってもらったもの」?中国史のフシギな言葉「禅譲」の意味を考える

関連記事:陸抗(りくこう)ってどんな人?父の無念を晴らした孫呉最後の名将

 

呉の武将

 

晋書では丁奉も魏に侵攻

丁奉(ていほう)

 

また、呉志三嗣主伝にも呉志、丁奉(ていほう)伝にも記載がありませんが、晋書、武帝紀には、西暦270年の正月には、呉の丁奉が魏の渦口(かこう)に侵攻した記録があります。

 

呉の武将の丁奉が渦口に侵入。揚州刺史牽弘が攻撃し敗走させた。これは丁奉の単独行動と言う事もないでしょうから、この時期、孫晧は活発に魏領を狙っていたのかも知れません。

 

関連記事:孫晧(そんこう)とはどんな人?呉のラストエンペラー「暴君」の名をほしいままにしたが、実は…

関連記事:落日の呉を支えていたのは丁奉と陸抗の二本柱!この二人には英雄の時代に転生してほしい

 

孫晧の北伐の理由

孫皓と張俊

 

では、どうして孫晧は北伐に意欲を見せたのでしょうか?

 

これは、頻繁に起きていた、呉から魏への逃亡者を阻止する目的と思われます。孫晧が北伐を起こす少し前、夏口都督孫秀(かこうととく・そんしゅう)が晋に投降しました。この孫秀は呉の皇族で人望が厚く、その為に前将軍として最前線の夏口を守っていました。

 

しかし、その人望から孫晧に猜疑(さいぎ)され、身の危険を感じて晋に逃亡したとされます。ところが、これは孫晧にとっては威信を大きく傷つけられる事でした。皇族で、しかも呉と晋の国境を守る重要人物が、こともあろうに宿敵の晋に投降したという事は、孫晧の統治能力にケチがついたも同然です。

 

孫晧は、これで自己の求心力が低下する事を恐れて、晋を恐れない強い皇帝のイメージがどうしても必要になり、自ら親征してみせたのではないでしょうか?

 

関連記事:劉禅と孫皓だと亡国の君主としてはどっちが上?蜀と呉の皇帝を比較

関連記事:王濬(おうしゅん)とはどんな人?呉を平定し、三国時代の終焉させた功労者【晋の将軍列伝】

 

再び威信が潰れる孫晧

兵士 朝まで三国志

 

ところが、親征から帰還して間もなく、今度は孫秀の部隊長の何崇が人民五千人を率いて晋に投降するという事件が起きています。良いとこなしの孫晧ですが、同年には虞汜と陶璜が晋に奪われていた交阯に攻め込み、晋の将軍を捕らえて殺し、九真、日南郡の支配を回復するというめでたい事もありました。

 

関連記事:【西暦280年の洛陽】劉禅さん家の隣に住んでいたのは○○だった!

関連記事:孫権はボロボロの宮殿に住んでいたってホント?

 

【次のページに続きます】

 

次のページへ >

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-孫晧
-,