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この記事の目次
海西女真との抗争
1589年、海西女真のフルン四部の一つ、イェへ部首長のナリンブルがフルンの盟主となり女真を統一しようとしヌルハチに帰順を求めますが、ヌルハチはこれを無視、両者は対立を深めていきました。
この時期の明王朝は、日本の豊臣秀吉による文禄・慶長の役への対応に忙殺され女真への介入は少なく、明と日本が戦っている間に建州女真と海西女真の争いは激しさを増していきます。
イェヘ部の首長のナリンブルは1593年6月、ハダ部、ウラ部、ホイファ部と連合軍を結成して建州女真を攻めますが、すでに待ち構えていたヌルハチに追撃されて大敗しました。
同年の9月、再びナリンブルはハダ部、ウラ部、ホイファ部、ジュシェリ部、ネイェン部、シベ部、グワルチャ部、ノン・コルチン部と9部連合軍を結成。3万の大軍を繰り出し、3方面からヌルハチを攻撃します。
9部連合軍が建州の城を攻めている間、ヌルハチは、スクスフ河北岸のグレ山の山影に精鋭を伏兵し、ヌルハチはわずか100騎で9部連合軍に奇襲して逃亡するフリをしました。
勢いづいた9部連合が追撃すると、グレ山のヌルハチの伏兵が背後から襲い掛かり、9部連合軍は包囲され殲滅。この戦いで海西女真と建州女真の勢力が逆転します。女真の諸部族は、ヌルハチに従う者が多くなり、明はヌルハチに対し竜虎将軍の官職を授けました。
ハダ部を計略で落とす
その後アムール川周辺にあるフルハ部と朝貢関係を結んだヌルハチは、次にハダ部の攻略に取り掛かります。ハダ部もイェへとマンジュ国の間で板挟みの状態にあり、1599年5月、イェへ部のナリンブルはハダ部の攻撃を開始。
ハダ部の首長メンゲブルは人質と共にヌルハチに援軍の要請を送りました。ヌルハチはこれに応じてシュルガチ と2000の兵を差し向けますが、突然自ら兵を率いてハダを攻撃。メンゲブルを騙し討ちにし捕虜にします。
メンゲブルはその後、妾と通じたという罪で死刑になり、ヌルハチはハダの住民を全てマンジュ国に連行しハダ部は滅びました。ハダ部は明王朝の対女真対策の要地であり、これを滅ぼしたヌルハチに対して明は経済制裁をちらつかせるなどの圧力をかけます。
そこでヌルハチは、メンゲブルの長子ウルグダイとハダの住民を元の地に帰しますが、イェへ部のナリムブルがハダへの侵略を繰り返し結局ハダの住民はマンジュ国に戻されることになりました。
メンゲブルの子、ウルグダイはその後ハダの地を踏むことなくヌルハチの忠臣として活躍します。
ウラ部ブジャンタイを滅ぼす
西暦1607年、ホイファ部も内乱に乗じてヌルハチに制圧され滅亡。日本軍が撤兵したこともあり、明はようやくヌルハチに危機感を持ち、海西女真のイェヘ部の後押ししてヌルハチに対抗しようとします。
ヌルハチはウラ部の首長ブジャンタイに対し、娘を嫁がせるなど懐柔しますが内心は快く思っていませんでした。ブジャンタイも裏ではイェへと関係を結んでいました。
1607年1月、ウラ部がワルカ地方のフィオ城を攻めた際、ワルカはヌルハチに助けを求め、ヌルハチはこれに応じ弟シュルガチを派遣しました。
同年3月、ブジャンタイとシュルガチの軍が烏碣巌で衝突しシュルガチが大勝、その後、ブジャンタイは和睦に応じます。ブジャンタイは、この腹いせに自分の妻でヌルハチの娘のムクシを虐待、これに激怒したヌルハチは1613年1月にウラを滅亡させ、イェへ以外の海西女真族を全て支配下に入れます。
弟シュルガチを幽閉
ウラ部攻略で大功を挙げたシュルガチですが、次第にヌルハチとの仲が悪化します。権力を握ったヌルハチの自分への態度が尊大になることにシュルガチは不満を覚え、またヌルハチも、自分の言うことを聞かないシュルガチに対して不満を覚えます。
そこで、ウラ部攻略で戦い方が消極的だったとヌルハチはシュルガチの兵権を縮小。さらに城を建設しようとシュルガチに兵を送るように命令しますが、兵を送るどころかシュルガチは自分の城を築きます。
シュルガチは3人の息子と密謀しヌルハチを見限りイェへと明朝へと近づくことします。これがヌルハチに知られ、シュルガチは財産を没収され2人の息子が殺害されました。
シュルガチは謝罪し許しを請い、ヌルハチは一度許そうとしますが、シュルガチが恨みごとを言っていると耳にし取りやめ、幽閉して死に追い込みました。
ヌルハチ、後金を建国しハンとなる
女真の大首長ヌルハチは、さらに海西女真、野人女真にも攻撃を仕掛け、次々と攻略して支配下に組み込んでいきました。こうして、建州女真を統一してから17年の間に、
ヌルハチは海西、野人女真を悉く併合して万暦44年(1616年)ヘトゥアラでハンの位に就き、国号を後金とし元号を天命とします。同時にヌルハチは八旗という軍事組織を編制、またモンゴル文字を改良した満洲文字を制定し、後の清朝の基盤を整備します。そして、天命3年(1618年)ヌルハチは「七大恨」と呼ばれる檄文を掲げ、明を攻める事を決定。正式に明王朝に反旗を翻しました。
イエヘ部を統合し女真族統一に成功
ヌルハチは明の庇護を受けていたイエヘ周辺の諸城を攻撃、李永芳が守る撫順城は1000名ほどの兵力でしたが、ヌルハチは女真人を馬市に参加させて李永芳に通知し隙を狙い撫順城を攻めて李永芳を投降させ清河城を陥落させます。
1619年4月29日、明はイエヘ部と朝鮮の兵を配下に47万人と総大将楊鎬を置き軍を杜松軍3万、馬林軍1万五千、李如柏2万5千、劉綎軍1万の4つに分けて、四路からヌルハチの居城であるへトゥアラに侵攻させます。こうして、撫順近くのサルフで明と10万を号する後金軍が激突しました。
実際の後金軍は5万程度だったようですが、明の将軍が功を焦って突出したので各個撃破が可能だった事と、戦闘中に塵が舞い上がりこれに乗じて明へ奇襲を掛けて成功し、後金が大勝利します。明に大勝したヌルハチは、サルフの戦いから5カ月で長年の宿敵、イエヘを統合し悲願だった全女真族の統一に成功しました。
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