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この記事の目次
瀋陽城を攻略
サルフの戦いの後、楊鎬に代わって遼東経略に就いたのは熊廷弼でした。その頃にはサルフでの勝利とイェへの滅亡で遼東における後金の有利は決定的であり兵士の士気も低く、モンゴルもヌルハチを恐れ明に味方しません。
遼東は治安も悪く農民も田畑を捨ててしまい社会混乱が頻発。熊廷弼は、状況を考えて守勢に回り18万人の兵を訓練して士気を高め、歴史的経緯から女真族と敵対する李氏朝鮮と連携するなどヌルハチを牽制します。
この方針で、農民は耕作を再開したものの朝廷には熊廷弼が弱腰と映り更迭、袁応泰が次の司令官になりました。袁応泰は積極策に出て、撫順と清河を奪い返す作戦を立てますが、それに先んじてヌルハチは瀋陽を強襲。
城の守将の賀世賢に挑発を繰り返し、深追いしたところを包囲殲滅させました。大砲と銃で守られていた瀋陽城を素早く攻略できたのは、賀世賢に不満を持っていたモンゴル人兵が後金に内応して中から城を開いたからだそうです。
袁応泰を破る
袁応泰は兵を遼陽城に集めて防備を固め、城が堅いと認識したヌルハチは、山海関に兵を進めるよう見せかけます。袁応泰はヌルハチの計略に引っ掛かり、5万の兵を出して野戦で交戦し敗北しました。
ヌルハチは、さらに遼陽城を攻めるも攻城は難かしく、一計を案じて、東の入水口を土濠で塞ぎ排水口を開こうとします。そこへ、明兵が出てきて両軍が激突、橋を奪取した後金軍は、梯子をかけて城に侵入、袁応泰は自害しました。
遼陽は、明、朝鮮、モンゴルに近く、建築資材を川に流せば資源に欠かさず、山に獣、川に魚が多く食料も豊富でヌルハチはここを本拠地とします。瀋陽と遼陽の2大重要拠点を獲得したヌルハチですが、この2つの戦いは後金にとっても大きなダメージを残しました。
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熊廷弼と三方布置策
瀋陽と遼陽を失った明では、過去に遼東を無難に治めていた熊廷弼の再任の声が上がり、再び返り咲く事になります。1621年5月、朝廷に召還された熊廷弼は「三方布置策」という遼陽奪還策を提言します。
三方布置策は、広寧には騎馬・歩兵部隊を置いて守りを固め、天津と山東半島の登州と莱州に水軍を設置して、後金の動きの隙をついて遼東半島を攻撃、遼東経路は山海関を本営として全般の指揮を執るというものでした。
こうすればヌルハチは故郷の本拠地が気になり兵力が分散されるので隙をついて遼陽を回復できるというわけです。天啓帝はこのプランを採用し熊廷弼を経略に起用します。
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意見対立から熊廷弼と王化貞が敗北
ところが、熊廷弼は遼東巡撫、王化貞と意見がたびたび衝突。また王化貞が兵を自由に動かせる権限を持つので合力して戦えませんでした。さらに王化貞は軍事知識に乏しく、大言壮語して後金を侮り、明が指針としていた熊廷弼の三方布置策も、王化貞配下の名将毛文龍が後金から鎮江を奪還してしまったことで崩れてしまいます。
1622年1月、ヌルハチは熊廷弼と王化貞の争いに乗じて、重要拠点の一つ広寧を5万の大軍で攻めます。しかし、広寧城の守備は堅いのでまず、西平堡を攻めて明軍を誘い出し野戦に持ち込みました。
王化貞に派遣された将軍劉渠は戦死し、もう1人の孫得功は剃髪しヌルハチに降伏します。後金軍はこの戦いに勢いづき、遼河以西四十の城を落とし遼西で略奪し、遼東の食料不足を解消します。
将軍王化貞は速やかに逃亡して熊廷弼と合流し山海関に退却しますが、この責任を問われ1632年に死刑に処されます。熊廷弼も同じく責任を問われ、王化貞に先んじて1625年に死刑になりました。
王化貞はともかく、熊廷弼を死刑にする必要はないような気もしますが…
袁崇煥に生涯最大の大敗
この頃ヌルハチは、王化貞の配下毛文龍のゲリラ攻撃にも苦しみ後金領内の漢人との文化的な軋轢が起きて国内問題に腐心します。
天命11年(1626年)連戦連勝のヌルハチは、明の領内に攻め入るために山海関を陥落させようと考えました。ところが手前の寧遠城では将軍袁崇煥がポルトガル製大砲の紅夷大砲を大量に並べて後金軍に備えていたのです。ヌルハチは袁崇煥の名声を聞き、降伏を勧告し高位につかせると約束しますが袁崇煥は拒否しました。
寧遠城の明軍は1万人ながら、遼人をもって遼を守る防衛策で農民を登用して総動員、袁崇煥は、まもなく援軍が来ると農民を激励し士気を鼓舞していました。明軍の徹底抗戦と11門の紅夷大砲の破壊力の前に後金軍は散々破られ退却します。
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覚華島攻略中に背中を負傷し病死
ヌルハチはここまで大敗した事がなく、人生最初にして最後の挫折でした。このまま退却すると権威が失墜すると恐れたヌルハチは、覚華島を攻撃し食料と軍船2千を焼き払います。
しかし、この戦いの最中、ヌルハチは背中を負傷、傷は重くなり1626年8月11日に享年68で没しました。ヌルハチは生前に後継者を定めなかったため、死後に後金王朝は紛糾しますが、第8子のホンタイジが後継者となり、明王朝打倒に突き進んでいきます。
世界史ライターkawausoの独り言
建州女真の小さな部族から出て来たヌルハチは、武勇と知略に秀でて、明の将軍、李成梁に仕えて、その庇護を受けて建州女真を統一しました。
その後は、秀吉の朝鮮出兵があり、明王朝が手一杯になった隙を突いて、海西女真、野人女真を得意の伏兵や知略を用いて次々と服属させ、ついには女真を統一して後金王朝を起こし、明王朝に反旗を翻します。
最期は西洋の大砲を多く備えた名将、袁崇煥に敗れ背中に受けた負傷で還らぬ人となりますが、中国最後の王朝の土台を築いたチンギス・ハーン以来の英傑と言えるでしょう。
参考:wikipedhia
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